2009-02-01から1ヶ月間の記事一覧

就職・照洋の入院・妻の発病・

就 職 気持が落着いてくると考える事は、これから先家族五人の生活の事だった。小規模ながら自作農になり食料の確保はほぼ自給の体制は揃ったという強みは持ったが、現金収入が途絶えた状態にある、小額でも良い何か現金収入を得ねばならないと思案を巡らせ…

実家の蘇生・兄嫁の再婚・新生活・冷たい対応

実家の蘇生 義父の葬儀も過ぎ、四十九日の法要にも妻と参列を済ませる頃はもう春だった。井上氏から借りた田んぼの田植を済ませ、休む間もなく大矢さんの田植を手伝い春の農作業が終わって一息する頃には六月になっていた。久方ぶりに生家を訪ねた、父母もよ…

追 記

追 記 ここで父幸夫のノートは終っている。当然続きを書こうとしたのだろう、そのためのノートも用意されてはいたのだが八冊目のノートには手がつけられてはいない。その後の様子は主客が入れ替わる、私という表記は石井照洋つまり石井幸夫の息子という事に…

こどもの国誕生・母の病気・こどもの国の開園・新築計画

こどもの国誕生 妻が二年の入院生活から帰り自宅療養にはいって間もなく、昭和三十六年三月中頃、勤務先の田奈火薬廠が近く接収解除されて日本政府に返還されるらしいという噂が奈良町の人々のあいだで話題となり始めていた。噂は噂を呼び、基地が返還された…

あとがき

あ と が きこの手記は私の養父、故石井幸夫が妻トシを亡くして一時元気をなくし手持ち無沙汰にしていることを心配した私の妻、美千代が提案して、乗り気を出したのがきっかけではじめられたものである。 共にする食卓での昔話を幾度となく聞いていたことも…

遠い日の思い出

遠い日(昭和25〜35年頃)の思い出によせて…。少年時代、まだ敗戦の影響が色濃く残りみんな貧しかった。テレビもなく電話も普及していない横浜の田舎町ではそれでも、きれいな空気、澄み切った空、明るい太陽、明るい笑顔と自由な雰囲気、逞しい遊びごごろ、広…

遠い日の思い出

●わたし 私は、小三の三学期のとき左目の瞳にケガをしました。 遊んでいた時の事故です、失明するかもしれないと診断され、 翌日、相模原国立病院に入院して、 四十五日間病院にいて、二回の手術をしました。 が、左目の視力は0.01です、二重、三重にものが…

遠い日の思い出

●まきちゃん 障害者病棟で入院をしている女の子です小二でした。 交通事故で右足を膝下から失いました。 松葉づえを使う訓練をしていました。 ぼくは一人っ子なので妹のように可愛いと思いました。 この病棟には小学生もケッコウいましたが、 話をしたのはこ…

追悼記

●仁太郎さん おじいさんです私が三歳の時なくなりましたので記憶にありません。 日露戦争で中国に行きました絶望したことがあったので、 戦死するつもりだったそうです。 かの有名な二百三高地の白襷隊(しろだすきたい)として ロシア兵との白兵戦でも死な…