就職・照洋の入院・妻の発病・

     就 職
 気持が落着いてくると考える事は、これから先家族五人の生活の事だった。小規模ながら自作農になり食料の確保はほぼ自給の体制は揃ったという強みは持ったが、現金収入が途絶えた状態にある、小額でも良い何か現金収入を得ねばならないと思案を巡らせていたのである。
 私は農業以外に特技も技術も学歴も持たない、その上に頭が良くないことは自認しているし、兄弟妹などは私が鈍重である事を指摘してはばからない、それほどの私であるので誠に心もとない、ただ今まで身体を使う仕事をしてきたし忍耐力は人一倍ある、誠実に働く事にも自信を持っていた。
 そこで行動を起こしたのである、竹馬の友で、長じては私の相談ごとなどに良く応じてくれていた近所の井組政一さんに相談してみようと思ったのだ。政一さんは一年年上で私は子供の頃から兄の様な親しみを持っていた。井組政一さんという人は三十二歳のとき召集令状を受け、妻子を残して横須賀海兵団に入隊したが、優れた成績であったので三等水兵の階級から三段階昇格の海軍兵長として軍務し終戦を迎えると同時に応召解除となり、帰宅しそのまま農業をしていたが、三年後に地元の駐留軍基地に特殊警備隊員として就職し、勤務成績も優秀なので四個小隊のうちの一隊の副小隊長に昇格していた。私は井組政一さんの勤務交代日に自宅を訪ね「貴方のお力でどのような仕事でもいといませんので、基地内の作業員にお世話していただけないか」と頼み込んだところ、根っからの好人物である政一さんは「サッちゃんそんなに改まらなくてもいいよ、ヨシ分かったよ、きょうあしたというわけには行かないが大丈夫だよ、俺がその内いずれかの作業場へ世話してやるよ」と政一さんは快く引き受けてくれたのである。
 それから僅か二日後、午前十時ごろ関根某なる若い警備隊員が訪れてくれて「石井さんに明日午後一時までに米駐留軍田奈火薬廠の警備隊本部事務所に警備員の面接試験に来てくれるようにと、井組副小隊長より言付けがありましたのでご承知ください」という伝言を伝えてくれた、私は「わかりました必ず参ります」と言った。
 私は心が軽かった。軍隊経験のない私が警備員とは、受かるはずがなかろうと思ったのである。どうせあしたの試験は不合格だろう、それなら面接でも大きな声ではっきり受け答えをしよう出来るのはそれくらいだ。と心に決めてそのままグッスリと寝た。翌朝目覚めた時には初秋の日の光も明るく輝き、裏庭の柿木にはツクツクホウシが甲高い声でないていた。母も妻も妹の英子も照坊も朝飯を済ませていたので私は一人で朝飯を終ると、たばこを一服つけていると、妻が私の顔をジッと見てつぶやくように「あなた、きょうの試験は政一さんがせっかく親切に紹介してくれたんだから、運良く受かるといいわね」と言いながら落着かない様子で励ましてくれた。 その日の午後十二時三十分ごろ、米軍田奈火薬廠の正門に着き警備員に来たことを告げると、その人は「解りました先刻十二時交代者から申し送りがありました、貴方でしたか四日前に病気でやめた人の欠員募集に応募された方は、ご苦労様です、ではご案内します」と正門から五〜六メートルのところにある警備隊本部事務所へ案内されたのである。 
 本部の面積は二百坪位だろうか、平屋の建物でそれを半分ずつ分けて消防隊と警備室で使っているようだった。右側が警備室で事務所やら仮眠室などあり、中央に大きな机が置いてあるのが事務所だった。正面の椅子には白人の下士官が腰掛けており、右側には六十過ぎの日本人警備隊長、左側には三十五〜六くらいの日本人通訳が座っていた。面接が始まったが簡単な内容であったので、私は大きな声ではっきり答えると、正面の白人軍曹は通訳のほうを見ながらしきりに頷いているのを見て、私は気が楽になった。筆記試験にいたっては誠にバカバカシイほど簡単であった。紙に鉛筆で、三分以内に住所、氏名、年齢を書くだけだった。バカにされてるのかと思うほどあっけなく終ってしまった。満点合格だと通訳に知らされた時は、こちらのほうが驚いてしまった。
 警備隊長より申し渡されたのは、明日より出勤すること、制服制帽は貸与する、給料は三人の家族手当を含めて月給六千六百円であった。その頃の手当ては他のものと比較しても良い方であっただろう。そのまま家に帰ると皆はあまり帰りが早いのでてっきり落ちたものと思って、慰め顔で何か言おうとしたので私のほうから先手を打って「受かったぞ、試験に受かったぞー」と言うと、「よかったねー、良かったなー」と何回も何回も繰り返して喜んでくれたのだった。このようにして私はまた幾度目かの就職をして農作業もするという生活になったのである。
 昭和二十四年一月一日は家庭裁判所法(民事訴訟法)が制定発布された日である。わが家では亡兄俊雄の遺児であり甥である照洋四歳の養父母になった私達夫婦であったが、養子入籍には生母の事前承諾及び養父母の資格審査が必要となる、そのため私達夫婦は生母ヒロさんと横浜地方簡易裁判所へ出頭指令を受け出廷したがその結果は良ということになった。養育能力もあり私達夫婦に子供がいないことも重要な要員となったようである、いずれにしても亡兄の遺児、照洋は正式に石井家の四代目相続人として決定したのである。
 昭和二十五年はしばらくぶりの安泰に迎えられた年といえた、我が家でも餅がつけて鏡餅、切り餅、お雑煮をゆっくり味わえたのも久しぶりだった。満で年齢があらわされるようにもなり、四月十五日には戦後新憲法下での公職選挙法の公布された。六月六日GHQは日本共産党徳田球一ほか幹部二十数名を公職追放し政治活動からも追放したのである。(レッドパージ)その頃から朝鮮半島北緯四十八度線めぐって、共産圏と自由主義圏の国対関係が険悪化しているという噂が流れていたが六月二十五日、突如として北朝鮮側から韓国側に宣戦が布告され、国境の北緯三十八度線を突破して韓国に侵攻し始めたのである。朝鮮戦争の勃発だった。
 そのため日本国内の米軍駐留軍基地は緊張し、基地内外の警戒及び警備体制も急速に厳重なものとなっていく。田奈火薬廠は奈良町の中央に位置し、逗子池子の弾薬庫の支廠である。朝鮮戦争勃発当初は昼夜を分かたず弾薬の積み出し搬出及び庫内格納作業が続けられ始めたのであるから、労務者の数も大量に募集され、労務者の人数も大幅に増加した。そのため警備体制も変えられたのであった。一昼夜二十四時間交代の二部制から、八時間交代の三部制に切り替えられ人員も四十四名から百六十人余りに膨れ上がったのである。
 私達警備隊員は通常勤務体制から非常勤務体制に切り替えられ、警棒携行警備から、実弾を込めたウインチェスター銃携行の武装体制に切り替えられたのである。そして一日一回のアメリカ式の格闘訓練を行い、月一回の実弾射撃訓練を実施させられたのである。毎日の軍事訓練もさることながら一昼夜三部制には恐れ入った。朝八時出勤して午後四時に勤務明けとなり、次の一昼夜は午後四時出勤で夜中の十二時に勤務明けとなる。次は夜中の十二時に出勤して翌朝八時勤務明けとなる。こうなると昼間の農作業が出来なくなる、そのため遅れがちになるのであった。
 そのため幼い照洋の世話を年老いた母ツルに任せ、慣れぬ身体で鍬や鎌を握り農作業や燃料の薪など集めたりせざるを得なかったのである。慣れない農作業は小柄なトシにとってさぞかし辛い仕事だったろうと思うのであるが長いあいだよく耐えてくれていた。
 年は結婚前から肥厚性鼻炎だったそうであるが、私はとくだんの注意もしなかったし気もつかなかった。生活にゆとりのない時ばかりで無関心であったこともある。それがいつしか蓄膿症になっていたようだ、しかも相当悪くなっていたようだが気づかなかった。その年の十月の中頃だったか、照洋と戯れていた時、照洋の後ろ頭がトシの鼻の付け根にぶつかったとき、トシの涙腺から黄色みがかった膿のようなものが滲み出ていた。私は驚いてトシに正すと、寂しげな顔をして「もう蓄膿症が相当悪くなっていて、この頃では昼も夜も頭が重いので、もうこのまま一生治らないだろうと、今ではもう諦めているのよ」と言うのである「何を言うんだ、蓄膿症は手術をすれば治ると言うし、相模原国立病院へ行けば有名な先生がいるということだから、あしたは明け番だから一緒に国立病院へ行って診察してもらおう」と説き伏せるようにいって妻を納得させた。
 診断はかなり進んでいるのですぐに手術しましょうということで二日後に手術する事になった。手術は三時間に及ぶものだったが無事に成功したとのことだった。三週間の入院で退院した。術後、担当した医師の話によれば、あと二〜三ヵ月遅れれば眼孔を犯され脳神経を犯され手術は不可能だったそうだ。脳神経を犯されればトシは廃人同様になっていただろうと言う事で、話を聞いたあとで私はぞっとした。
 昭和二十六年七月、朝鮮戦争の休戦協定締結が調印された、朝鮮南北戦争がとりあえず終わりを告げたと言ってよい。その一〜二ヵ月後から駐留軍労務者の人員整理(首切り)が始まったのである。私達の警備員も約半数が整理または配置転換された。まだ八十数人が残っているので、第二第三の人員整理があるかと不安の日々を過ごすことになる。そこら辺が国内民間会社と異なり明日の雇用保証がない駐留軍労務者の泣き所である。
 私は就職後三年以上であったので、古参組みは対象外ということで一応の安心材料はあったのだが、その年の九月、連合国と日本政府との平和条約及び安全保証条約が締結されたので、日本国内の駐留軍基地も非常体制から平常体制にもどり、奈良町の田奈火薬廠の警備隊組織も逗子池子火薬庫から相模原淵野辺キャンプの組織下に組み込まれたのである。それは田奈火薬廠が日本通運株式会社の下請けからせいふの直属に移ったと言う事である、皆大いに喜んだのだった。その結果、井組政一副小隊長や私などは現状のまま残留ということで、とうぶんは人員整理などに怯えなくてすむという安堵感に救われたのである。そして、私達警備の勤務体系も朝鮮戦争勃発以前の一昼夜二十四時間交代制の二部制に戻されたのである。  
 また以前のように空け番を利用して農作業が出来るようになったのである。前年、蓄膿症の手術をしてすっかり健康を取り戻した妻がまめまめしく働いてくれたので滞りなく楽しい日が続くのである。

     照洋の入院
 昭和二十七年九月中頃の事だったと思う、私は明け番で家仕事をしていた午後三時半ごろの事だ。妻と二人で足踏み式の縄綯機(なわないき)で稲藁の縄を編む作業をしていた時の事だった。照洋が泣きながら、左目を抑えながら帰ってきた。妻が心配して「照坊どうした?」と聞くと、遊んでいるときはさみを持った義弟の上から覗き見をしていたら何か取ろうとした義弟の手が滑って、手にしていた、にぎり鋏の先が目に当たったというのだった。「どれどれ」と私が見てみると、左目の黒目のところが白濁している、そして瞳のところに傷があった。涙の様な水みたいなものがたくさん出たと言うのである「父ちゃん何も見えないんだ、皆白くなってて何も見えないんだ」と言うではないか、これは大変だ私も驚いてしまったが、猶予は出来ないと思った。
傍らの妻に「すぐに医者に行かないと大変なことになる瞳がやられている、もたもたしてると取り返しのつかないことになりそうだ」と妻を急がせた。妻も驚いて「照坊それじゃ今から母ちゃんと一緒に、町田の目医者に行こう」と身支度もソコソコに町田に急いだのである。私ももう縄を編んいるどころではなくなった、母ツルも気が気でなくそわそわしだしたが帰るまではどうしようもない待つのみであった。夕方ようやく帰ってきたときにはツルは駆け寄るようにして「トシどうだった?」とせきたてるように聞いたところ、町田の女性の眼科医は「最早、個人病院では治療するのは無理なほどの怪我なので、きょうは化膿止めの注射をしておきますから、明日早く相模原の国立病院へ行ってください、国立病院には最近、埼玉国立病院から転勤してこられた先生で、日本でも三本の指にはいるくらい有名な眼科の医師がおられるので、私が紹介状を書きますからあした国立病院へ入院してください」ということになった。
 当時は完全看護という体制は整っていなかったので、照洋が病院に慣れるまでと、手術のあと一週間くらい妻が付き添いで病室に寝泊りする事になった。そして、手術を急がなくてはという診断が出たのである。一度目は白濁した部分を取り除く手術でこれは完璧に成功した。
 二度目は最初の手術から三週間の後、今度は瞳についた傷を修正するもので、出来れば視力の回復になればとのことだった。だがさすがの名医と言われた医師だったが壊れたガラスレンズを修正するようなもので、完全にと言うわけにはいかず、それでも〇、〇一までは回復したのである。当時の事情から見ると驚くほどの回復だったというべきだろう。
 なお、最初の診断で後二日遅くなってしまえば手術の出来る状態ではなくなってしまうほど水晶体液がなくなってしまっただろうとの事だった。照洋は四十五日ほど入院をしていたがさいわいなことに、無事失明を逃れ退院してきたのだった。そのまましばらく休んでいた学校へまた通えるとうになった。入院中同級生を連れて見舞いに来てくれた先生たちにお礼の挨拶を妻に頼み、ひとまずほっと一息ついたのだった。
 さて、しばらく何事もなく平穏に過ごす年が続き、誠にのんびりとした日々があった。昭和二十九年春、わが家の隣接荒廃地(国有地)二百四十坪があるので大蔵省管財局、横浜地方財務部管財第二課より借り受けて、開墾して水田をつくり米を作った。秋の収穫時には三百キロ近くの収穫があった、当時まだまだ物資の不足はあったので白米は銀シャリといわれ主食の王者だったから三百キロの余剰米は相当額で売れた、わが家の家系も少しずつ楽になってきたのであった。昭和三十一年秋には、石井家の先祖、祖父母、父、兄、弟などの追善供養をしようと思い町田の加藤石材店に依頼し、石塔を作って我が家の菩提寺、松岳院の墓地に建立し法要供養をすることもできた。昭和三十三年春までは比較的平穏な日々を楽しんでいた、その間にはいくばくかの貯金も出来、ツルにも報告したところ涙を流して喜んでくれたのである。
 その年は朝鮮戦争休戦協定締結後七年が過ぎていたが、私が勤務する米駐留軍田奈火薬廠内にある三十三個所の弾薬貯蔵庫に相当量貯蔵されていた軍事用爆薬、敷設用地雷、ロケット砲弾頭の兵器類はそのほとんどが逗子市池子にある米軍基地池子弾薬庫の方に移送されて、田奈火薬廠のほうには危険な弾薬はほとんどなくなった。そのため田奈火薬廠に働く労務者、警備員、消防要員など総員の六十パーセントが人員整理の対象となり解雇あるいは配置転換を余儀なくされた。私達の所属する警備隊も例外ではなく三十名足らずに縮小されたが、井組政一さんや私などはその対象外であると上司から聞いてまたまた胸をなでおろしたのである。次は基地が日本政府に返還されるまでは人員整理はないであろうと同僚たちも心なしか安心した様子が伺えた。

   妻の発病

 私も順調に来ている昨今を振り返り、この調子ならもう少し農地の買い増しも出来そうだ、そうすれば千五百坪の農地の確保も夢ではないことになる、などと思惑を膨らませたりしていた。そんな年(昭和三十三年)の七月の中頃、妻トシが季節外れの風邪をこじらせてなかなか起きられない、微熱が続き容態も一向に改善してこない、そこで家庭医として長い付き合いの長津田の奥津医師にお願いして往診に来てくれるようにしてもらった。風邪薬などを処方していただいて飲んでいたのだが十五日ほど経ってもよくならない。その上、毎日午後三時頃になると三十八度の熱が出る事が続いていた。先生は長いですねといい念のためレントゲンを撮りましょうかと妻を往診車に乗せて医院まで運び、レントゲン撮影をした。私は結婚以来小柄な身体ではあるが健康であり、蓄膿症の手術をした以外は医者にかかったことさえなかったので、別に心配もせずにいた。
 ところがトシがレントゲンの結果を聞いてきてほしいというので長津田の奥津医院を訪ねて聞いてみた。あいにく医師は往診に出ていて留守だったが、奥さんに伝言された内容を伝えられたところに寄れば、病状は予想してた以上に進んでおり、重症ともいえるほどである、とても開業医の手に負える状態ではないというのであった。私は驚きながらショックをおさめようと駅のベンチに腰掛てしばらく考えた。気を取り直して妻の実家へより義兄の半蔵さんに相談に行った、そこへ奥津医師が来てくださり相談の結果、妻にはまだ初期の肋膜炎程度だから相模原国立病院へ入院加療すれば三ヵ月くらいで退院できるだろうということで、本人にあまり不安を持たさないようにしようと一致した。
 二日後、奥津医師の紹介状を携えて国立病院へ入院、内科二号棟別棟、結核患者専用病棟にはいり闘病生活が始まった。後日、同病院の主治医、中村医師より改めて説明を受けた。病名は肺結核で安静度二度というかなり重症であるということであった。たとえ病状が順調に回復に向ったとしても退院して自宅療養になるのには三年くらいかかるでしょうとのことだった。当時の結核はまだ法定伝染病に指定されていなかった。そのため保険に入っていても医療費の五十パーセントを支払わなければならなかった、私の月給は三万二千円であった。医療費は月額四万八千円、祖の五十パーセントを支払うと手元には八千円しか残らない、七十三の母ツルが家計を切り詰めてくれたので何とか成ったわけであった。私は一切の事を母にお願いし仕事に専念できたのも、若い頃から貧困のなか多くの子供を育てて、健康を保ち続けてくれた母がいたから切り抜けられたのだという思いがして頭が下がるのである。
 当時は健康保険制度も国民保険制度も任意のもでしかなかった。またやむなく貧困に陥り困窮していても生活保護法や母子家庭救護法などは名目ばかりで、民生委員制度はあったのだがその土地の顔役の肩書きになったに過ぎず、真に貧しい人の役に立っていたとは到底思えないような時代だった。国民皆健康保険制度、国民皆年金制度は三年後(昭和三十六年)であったと記憶している。
 結核は当時でも死の病といわれ大変恐れられていた、とくに肺結核はなかなか治らない、ひとたび感染し発病すれば軽いうちに治癒しなければ長いあいだ病み続ける厄介な伝染病でその上治療費が高い。そのため多くの家庭ではこの病気を発病する事は大変な負担と強いられるのであった。このため自宅療養ということになり、家族とは別の物置きなどに急ごしらえされた病床に臥すのである。私の兄は母屋の座敷ではあったが、戦時中ゆえ満足に医者もいなかった。が、前述したようにたまたまの好意にあい、最後は医師に見てもらえるという幸運に浴したが、ほとんどの人はじりじりと死を待つのが当然の様な死にかたをしたのである、それがほとんどの一般の家庭の状態だった。
 その点では妻はかなり結核に対する理解も設備も整いつつあった時期だったので国立病院に入院できたのが幸いだった。だが主婦のいない家庭は味気なくもの寂しい空気が重くのしかかる。年老いた母も、照洋もお互い口にはしなかったが随分と寂しい思いもしただろうし、心もとなかったのだろうと思った。安静度二度というかなりの重さで入院したときから、私は十日ごとに面会にかよっていたが病棟内の面会室での面会は許されなかった、看護婦控え室から消毒したガーゼのマスクを渡されてそれを付けて、患者の病床から三メートル離れて面談するようにとのことで、面会時間は五分を限度とすること、等々看護婦長から申し渡され、規定に違反した人は次の面会はお断りする事にいたしますので悪しからずお含み置きくださるようにとの厳しい条件がついた。なお、五歳未満の児童はいかなる条件にあろうとも面接は一切禁止であった。
 そんな面会をしながら妻の快方を祈りつつ月日が経っていったのである、そして入院以来四ヵ月がすぎたころ、主治医の中村医師より医師控え室へ来るようにと看護婦長より伝言された。私は内心ドキッとした、やはり重いのかと思いながら、どんな事を言われても動揺しないようにしながら控え室に向った。恐る恐るドアを開けて一礼して医師の顔を見たら中村医師はニコニコとして口を開いた。「さて石井さん貴方にわざわざおいで頂いたのはほかでもありませんが、実は奥さんの病状についてですが、入院当初のレントゲンでは右肺の上部に、直径五センチ位の空洞がありましたのでかなりの重症でしたが、きのうのレントゲンでは半分の大きさになってますよ、予想以上に回復しておられます、あと二年もすれば退院できるでしょう。自宅療養になれば月に2階の通院で済むようになりますよ」といってくれたので、私は安心し、良かった良かったと独り言を言いながら帰路に着いたのである。そして、入院も五ヵ月、八ヵ月と経過する頃には妻の症状は医師も驚くほどの回復を見せ、同室の患者仲間にもうらやまれるほど順調に回復していった、入院後十一ヵ月には二泊三日の外泊まで許可されるまでに回復したのである。
 そして、昭和三十五年より全ての結核性疾患には法定伝染病の指定がなされ、医療費、入院費が国費となり私の負担が無くなったのであった。その間、大変な時、母ツルのやりくりと頑張りのおかげで、他人はもとより、親戚、縁者に至るまで一切経済的負担をかけずにやってこれたのは、ひとえに母のお陰であり、留守の皆が健康でいてくれたのが何よりだった。