屈辱と謝罪・自信・決意・

     屈辱と謝罪
 やがて第三十六銀行の頭取石田某なるひとが工場へ乗り込んできた。氏は専務取締りとして工場の経営その他一切の権限を収め、会社再建を全株主(創業時からの総支配人及び相談役等)に申し渡すとともに、男子従業員全員及び主だった古参工女、養成工女に技能教育をほどこす教婦等を一堂に集合させ引見し手歩いたのであるが、私の前で足を止め「君は目が悪いのか、それに右足も少し悪いようだが、それで作業ができるのか」と質問されたので、私ははっきりと「ハイッ大丈夫です、できます」とこたえると、少し通り過ぎてから振り返り、頭のてっぺんから足の先までじろりと見て何も言わずにそのまま遠ざかっていった、私は何か不吉な予感がした。
 翌朝の始業時間直前になって、総検番である浅野某なるひとを通して解雇を申し渡されたのである。浅野という人も銀行から来た新しい責任者の一人である、すぐさま宇都木周作という事務員を呼び寄せて一通の封書を手渡して「理由はこの中の書状にしたためてあるので君は午後になったら石井君の荷物をまとめて人力車で拝島駅まで行き、そこから列車で横浜線長津田の新倉募集員宅まで石井君を送り届け一緒に自宅まで送り届けてほしい」と指示したのである。
 私は傍らで聞いていたが、うすうす覚悟はしていたものの目の前がボーとかすみ頭から血の気がスーと下がったし涙も出ないほどショックをうけた。その日の午後、宇都木氏とともに二か月の間にやっと慣れ始めていた工場の門を出ようとしたとき雑役仲間の少年、先輩たち、古参の工女、検番の人たちまでが見送ってくれて「石田という奴はひどい奴だ、お前は覚えもよく陰日向なく真面目に働いていたのになあ」と口々に慰められて初めて大粒の涙が頬を流れ落ちた。
 その晩は長津田の新倉宅に泊まり翌朝、自宅に送り届けられた。二カ月分の給料十円也と解雇手当とも思われるいくばくかの金銭と石田重役からの添え状を受け取り読み終わった父は「よく解りました、やむをえません」と答えたのみで後は押し黙ったままだった。宇都木氏が帰った後、母は「かわいそうに辛かったろう、おまんまでも食えヨ」といわれて張り詰めていた気持がいっぺんに崩れ、母の膝にすがり肩を揺らして泣き止まなかった。当時、世間一般では十五歳にでもなれば、男も女も世間に出て他人の中で充分働いていけるものだという意識であり、それができぬものは知恵遅れか不具者であると言われた時代である。わたしもそうした人たちの仲間入りかという絶望感が心に宿ったが、二〜三日過ぎると心も平常に戻り家業の豆腐製造や野良仕事に精を出した。
 それから七日目の昼頃だった、六月下旬のことだったが森田製糸工場の揚糸巻き返し工場の検番の谷治金治さんが、突然訪ねてこられて父に深々と頭を下げて「お父さん、お母さん、お怒り、お叱りは重々覚悟の上でお伺いいたしました、はなはだ身勝手なお願いで恐縮でございますが幸夫君をあらためてお貸しいただけませんでしょうか」という申し込みであった。
 谷治氏によると、私が解雇された日から四日後の朝、工場の始業時間前、主だった従業員、検番、古参の工女たちが集合して「陰日向なく真面目に働く年少の従業員を何のこれという理由もなく、単なる外見で首切りをするような雇用主の元では将来が案じられて安心して働けぬ」と朝の総検番を通して石田専務取締役に抗議したとのことであった。石田氏もことの成り行きに驚いて「それでは石井君の再雇用をお願いして、君たちの顔の立つようにするから」ということになり、こちらの方に馴染みがある谷治氏に頼み訪問させたのだという、谷治氏は「幸夫君、どうだろう今もお父さんお母さんにお願いしたが、君もさぞくやしいだろうが工場へ戻ってはくれないだろうか、今後はどんなことがあっても私が責任を持つから」といってくれたのである。父は「俺にはなんともいえない、おまえが自分で決めることだな」と、母は「さちや無理に行かなくてもいいよ」と言ってくれた。
 私はしばらく考えて「行くよ」と答えた。
 私が工場へ戻る決心をしたのは元同僚の人々が不慣れな新参者の私が誠意を持って、真面目にできるかぎりの努力をしていたのを見ていてくれたのだということと、新しい上司の独断的な対応に見せてくれた先輩たちのことを信頼したからで誠意を持って自分も応えようとしたからであった。そのとき私は十五歳で、知ることのできた世間の人々の人情でもあったからである。かくして私は喜びと緊張を抱えて谷治氏と連れ立って、再び森田製糸工場の門をくぐったのである。皆さんは門前まで迎えてくれて、口々に「よかったよかった」と我がことのように喜んでくれた。
 翌朝から以前のように受け持ちの第一工場の作業に精を出した、そして二日目の昼休みのことだ、浅野総検番がニコニコと顔をほころばせながら「石井君事務所の専務室で石田重役が君に会いたいと待っておられるから行ってくれたまえ、いやいや、何も心配することはないよ、何か良い話のようだからな」と伝えてくれた。私は一瞬、緊張したが「はい参ります」と答えすぐさま石田重役の部屋に行くと、石田重役は部屋の扉を開けていて「アー石井君か、さあコチラへ来て椅子にかけたまえ、いやーよく帰ってきてくれたネ、ありがとう、悪かった悪かった。君が人一倍よく働く優秀な小僧さんとも知らずあのようなことをしてしまって、ぼくは皆に叱られて吊るし上げられてしまったよ、本当にすまなかった」「サアサア君、そんなに固くならんで菓子でも食べなさい。あーそうかここでは食べづらいか、では、もって帰って皆で食べたまえ」と、次に周囲を見回して「これは皆には内緒だが、ぼくから君へ今までの謝罪を兼ねた報奨金だ、少ないが取っておいてくれたまえと遠慮する私の手に無理やりに、私にとっては多額と思える一円札五枚を握らせ、サアもう下がってもいいよ、身体に気をつけてこれからも会社のために働いてくれたまえ」と、私は丁寧に一礼をして専務室を後にした。それまで心の中でくすぶっていたモヤモヤしたものがスーと消えていった『人の性は善なり』との世の中の諺どうり石田氏の好意を感じその後の私にとって大切な何かを学んだように思う、それ以来私は仕事も人付き合いも会社の環境にもスッカリ安心してのぞめるようになりそれまで付きまとっていた不安感、劣等感を克服したように思えた。先輩や同僚などからも「おまえはこの頃だいぶ明るくなったなあ」といわれるようになった

     自 信
 私が森田製絲工場に勤めて二年半が過ぎた頃、下検番の見習いに抜擢された。月給も今までの二倍半余の十三円をもらえるようになり、盆の手当も八円、暮れの手当も十五円をもらえるようになり、まずまずこれで一安心と思った。そんな矢先、森田製絲株式会社は資金繰りに行き詰まり倒産してしまった。しかし、私たちは幸いに製絲工場の経験を買われて、再就職することができたのである、関口製絲合資会社という工場に糸繰り経験工女、百六十名とともに迎え入れられた。この工場は神奈川県鎌倉郡(現、藤沢市)中和田村字上飯田にあった。
 月給はたしか十六円だった、昭和五年六月ごろで私は十七歳になっていた、十八歳になったときは月給も十八円になり待望の下検番(見習い監督)に昇進したのである。下検番は監督補佐であるためいままでのように、単に作業だけしていれば良いというわけにはいかなく、簡単な帳簿の記入など計算が必要になる、そのため珠算ができなければ仕事にならないので、書店でそろばん初歩練習書を買い求め、暇を作って独習を始めたのだがなかなか会得できず閉口していた。第一〜第三工場での工女の作業実績を集計している事務員で神奈川県高座郡座間村字新道から住み込みで来ている高橋たけ子(十九歳)という人がいた。私が珠算の独習をしていることを知ったようで「幸夫さん、本で習うのは大変じゃないの、私でよかったら教えてあげますよ」といってくれた。私は大いに助かったので、渡りに船とばかりに見取り算、二桁までの掛け算、割り算を教えてもらいどうやら下検番としての任務をまっとうできるまでになった。
 下検番となると、男子従業員の中堅になるので持ち場に業務を完了すれば決められた休憩時間でなくとも、案外自由行動が認められていた。業務時間後は九時の消灯時間までは届出を出しておけば、夜間が異質も単独行動もできたが工女は古参の室長以外は単独外出はできなかった。室長とは大部屋一室に工女二十五〜二十六人を収容し、日常の寝起きその他の面倒をまかされている二十五歳以上の女性をいう、一般工女は週に一度の外出だけで単独外出はできなかった、七人一組での外出以外は許可が出なかった、そのような厳しい制度は工女だけでなく、年少な女子事務員、新参の男子雑役にも課せられていたのである。もちろん高橋たけ子も同様にまだ外出のできない身だったので、私は外出の際に感謝のお礼を兼ねて簡単な日用品などを買い求めて差し上げたのだが、彼女は最初遠慮して受け取らなかったがしまいには快く受け取ってくれたので私は親近感を持つに至った。彼女も貧農の家の次女であり兄弟姉妹も多く、生まれ在所の高等小学校の高等科卒業すると同時に関口製絲工場に雇われたのである。珠算が得意で三級の資格があったので、工女ではなく簡単な事務を任されていた。月給も十二円くらいでそのうちから八円を父親が取りに来て、残りの四円で身の回りをまかなっていたようだ、私は妹のような思いを持つようになっていた。彼女は年長の女学校を卒業した二人の女子事務員と十畳の部屋に寝起きしていた、工場の宿舎は一部の男子従業員や独身の検番、下検番が十畳一間に二人づつの合部屋であり、それに三人の女子事務員、工場食堂の主任料理人夫婦と炊事婦四人の部屋があり、右隣は目付け役を兼ねた相談役ともいえる総検番の霜島近次郎夫妻家族の社宅であり、全体に宿舎というより大家族の住居のようで和やかな空気が流れていた、私たちの部屋は主任検番で、倒産した森田製絲からともに転職した上條信次さんと一緒だった。廊下を隔てて三部屋ほど向こうが三人の女子事務員の部屋になっていた。
 同室の上條さんは長野県諏訪の人で、私と同じように少年の頃から貧しい農家の次男で大変苦労をして成長しただけあり周囲の誰彼という差別なく理解と温かみの深い人で、年は三十五歳だったが私のみでなく先輩の検番、同僚はもとよりたくさんの工女の身の上などの相談を受けて関口社長からも厚い信頼を受けていた。
故郷の諏訪に妻子を残して単身住み込みで二ヵ月に一回妻子にもとに帰り生活費などを渡し、翌日は愛妻の手造りのそばや山菜の漬物などを持ち帰り、炊事係のおばさんに頼んで料理してもらい、皆を部屋に呼んで食べさせながらわが子の自慢話をするのだった。「ホラホラ、また上條さんの子供自慢が出たぞ」などと冷やかされ頭をかいて大笑いするような人情深い人だったのでそんな上條さんの所へは皆、故郷から送られてきた珍しい食べ物や、外出した時町で買ってきた菓子などを持ち寄り度々茶話会などをしていたが、そんな折、上條さんは私を指して言った。
「俺はこのサッちゃんが好きだ、二年前に森田製絲から関口製絲にお世話になって以来、受け持ち工場は違うがずっと同じ部屋に寝泊りして良いも悪いも俺が一番知っているからさ、それに霜島さんも石井君は素直でよく働くし目下のものの面倒もよくみて今までに大きな声で叱ったり仲間同士で争ったりしたことはただの一度も聞いたことがないので感心だといっておられたよ、だが俺の目から見ても男振りはどう贔屓目に見ても男子従業員中下から一番だなー」といってみんなを笑わせたりしたが「だが石井君は我々の仲間では算盤が一番よくできるから大したものだよ」と同僚が言うと「そうかもしれん、サッちゃんは算盤は高橋が直接手をとって教えたので、そのとうりかもしれんなー」と言うと、周りのものはお互いに顔を見合わせて、意味ありげに頷いていたが、私には何のことかそのときには解らなかった。
 高橋たけ子は本を読むのが好きな子だった、私たちは時々自分で読み終わった雑誌、大衆文学全集、単行本などを貸し借りしていたので、互いに読後感などを話し合うようになっていたある日、同僚の下検番が「おまえと高橋は、目下恋愛中で相当にお熱い仲だと工女雀の噂になっているぞ」といわれ以外だった。その後、彼女に会った時に「ありもしない無責任な噂を立てられて、君に迷惑をかけてすまなかったなあー、これからは俺もあまり馴れ馴れしくしないように気をつけるから、今までのことは勘弁してほしい」と謝ると、かの女は私の顔をじっと見て「他人がなんといったって私は構わないけれどサッちゃんは私が嫌いなのそれとも好きなの、私だってもう子供ではないのよ」と言うのである私は慌てた、胸の中を見透かされたように思った。「そりゃあ好きだよ、でも俺は工場では一番の不男だし、足も悪いからなあー、それに仕事も半人前で未だ十八だしなー」と言うと「ああー、良かった私だって太っちょで色黒で、顔は悪いし不器量だからちょうどいいじゃない」というのである。まあそのとうりで三百人近い工女の中でも不器量なたけ子ではあるが、丸顔で額が広く口元はしまり利発な子である。たけ子は私の顔にちかづけて小さな声で、「私は、幸夫さんは素直で真面目だから、きっと二十一歳(徴兵検査後)になれば検番さんになれるわよ、その日の来るのを私は楽しみに待ってるわ」というのであった、二人は互いに身体を寄せ合い、固く手を握り合ったのであるがそれ以上のことはなかった。そのような交際は順調に翌年まで続いていた。
 昭和六年、兄俊雄が徴兵検査で甲種合格となり、現役兵として東京赤羽の第一師団工兵第一大隊に入隊することになった。私はそのために生家の農業を手伝うことになったので止むを得ず二年数ヶ月勤めて住み馴れた関口製糸工場を退職した、昭和七年二月私は二十歳になった、高橋女史との交際は自然消滅ということになった。そんなわけで自宅に戻り農作業をしていく事になったがそれまで本格的に農業をしていたことがなく手伝い程度の農作業の経験しかなかった私にとって本格的な農業は想像をはるかに越えた重労働であった。私の体力からすれば普通の農家青年が一日で終る作業も、二日かかってもやっとのことで、農繁期の六〜七月ともなると酷暑や重い農作物の運搬など初めて経験するのでとても辛いもので苦業でもあった。それでも半年もするとどうやら鍬、鎌などのあつかいにも馴れて、施肥料や種蒔きなど農作業のコツもわかりかけたが、途中からの農家なので耕作地も少なく家族に年間の食糧をまかなうほどの収穫はなく半年間の米は他家から買わなくてはならなかった。
 そんな折、ツルの亡くなった母の生家(屋号、神戸の関根揮章さん)の従弟(いとこ)が来て話すのには、以前から雇っていた作男がよそへ養子に行くことになったので程なくやめてしまう、代わりに私に来てくれないかという話だった、私は本格的に農作業などを教えてもらうにはちょうどいいと思って、三日に一度、一ヵ月に十日、一年に百二十日という約束で話がまとまり、三日ごとに関根家の日雇い作男として働くことになった。三食とも雇い主が賄うのが当時の習わしで春夏は早朝五時までに先方に着き、朝草刈りまたは家の周りの清掃などをし雨降りの日は縄ない納屋の中の片付け米俵あみなどの仕事をし、日当は一人前に人は六十銭だが、私はまだ不慣れなので四十五銭と言うことで働いた、それもお金ではなく米や麦を先取りして仁太郎が受け取っていたのである。そんな暮らしが一年半くらい続いた頃、兄俊雄が軍隊を満期除隊した時には誰の手もわずらわせなくともまずまずひととうりの農作業とそれに付随する炭焼きまでできるように体力がつくようになっていた。昭和八年、その年は私の徴兵検査がある年で検査を受けたが私は丙種合格、兵役免除だったためそのまま関根家に作男として通い兄は自家農業に専念すると言うことになる。
     決 意
 翌昭和九年三月下旬のある日、兄俊雄が何か深く思いつめたような顔で私に向って言った「俺は近いうちに家を出ようと思い決心したのだが、家のものに何も言わずに黙っているようなことはしたくないのでおまえにできは話しておくが、お前も十五の歳から足掛け六年間も他人の中で苦労して働いた賃金を、わが家のために出してくれ俺が兵隊に行っている間、うちの百姓をしながら作男にまで通い慣れない仕事をして苦労をしてきたが我家はもう駄目なんだ、俺やお前やカツ(二女・十八歳)琴江(三女・十六歳)の四人が飲まず食わずで働いても、我が家の借金は払いきれるもんではない、それほど借金が溜まっていることがわかったんだよ」「野川孫太郎(高利貸)さんの分だけでも、親父に内緒で調べてみたら、二千六百円にもなっている、ほかにも三軒からの借金があり合計すると三千円近くなる、野川さんの以外だったら俺たち兄弟妹が協力すれば何とかなるだろうが野川さんの分は親父の恩給や年金の証書が抵当に入っているからいつ返済が終るのかすらわからない状態だ、それに姉エイも今年は二十六になる、この頃では嫁入り話をもってきてくれる人が二,三にんいるというのに、うちの借金があるためにいまだにたけで苦労して働いている姉がかわいそうだ、多少の借金ならいざ知らず、まさかこんなに借金があるとは、いまのいままで夢にも思わなかった、このごろは野良仕事をしていても、借金のことがあたまからはなれないので家を出る前に、今日か明日にでも川和警察署に行って人事相談部で事情を打ち明けて解決方法を確かめてくるからな」と思い詰めた顔で私に言った。
 私は兄お言葉を聴き終わると、そうだったのか、俺も故郷を離れて五年間いろいろ仕事をして給料の七、八割を仕送りしたりしていたのに、親父は「お前たちが後三年間働いてくれれば、借金は払い終わる、その時は俺の恩給と年金が入ってくるから、俺は田畑を買って自作農になれるからな、何しろ俺は恩給と年金があるからなそのときはお前たち兄弟も楽になるだろう」と得意げに話したものであったが、借金は全然減ってなかった。
 私も大変驚いたが、しばらく考えて「だけれど警察の人事相談部へ行っても多分無駄だと思う、法外な利息を承知の上の借り入れなんだから裁判沙汰なんかになっても弁護士の費用もないし、相手方には顧問弁護士がついていると言う話だし」というと、兄は「だが今のところではほかに方法がないだろう」というので「いやそれは無いことはないだろう」と言うと、兄はムッとした顔をし顔色を変えた。「ではお前には何か方法があるというのかッ」とイライラした様子だったので、私は兄の気持を静めるように「ちょっと待ってくれよヨ、必ずあるとは言い切れないが無いこともないよ」と言いながら急いで押入れから自分の古びた布張りのトランクから取り出した雑誌の最後のページを指して「読めば解るよ」と兄に渡した。
 兄は急いで雑誌を受け取るとむさぼるように読み始めた。次の瞬間、目を輝かせながら「ヨシッこれだ、これだよ」と言いながら私の顔をじっと見て、肩の力を抜いた穏やかな表情に戻り、「よくお前はこんな記事に気がついたなー、俺も度々この本は目をとおしたが気づかなかった」と言いながら確かめるように、二度三度と読み返しているのだった。「高利の借財等に苦しむ全国の会員諸氏は、勇気を以って本会本部にきたれ、必ず解決の道あり」というもので、[やしま報]という雑誌で大日本傷痍軍人会発行となっていた、それは三月に一度我が家に送られてくる機関紙だった。
 兄はにわかに元気付き「よーし俺は今からすぐに東京・巣鴨傷痍軍人会本部に言ってくる、なーに俺は赤羽の工兵大隊に一年半以上いたのだから、東京の地理には明るいからな、お袋には余計な心配をするといけないから、お前からそれとなく話しておいてくれ」「だが親父さんには内緒にしておいてくれ」というと、こざっぱりした野良着に着替えると午後一時頃家を出て行った。そしてその日の夕方、心配している私たちの前に晴れ晴れとした顔をした兄が帰宅した。「結果は上々だ。債務返済の方法や法的手続きも一切軍人会が当たってくれるというのだ」債権者(野川孫太郎さん)が最初に取り決めた年利一割二分(十二パーセント)を守らずに倍以上の暴利をむさぼりとおすなら、また是正交渉に相手方が応じない場合は大日本傷痍軍人会が原告に成り代わり訴訟その他一切の解決に当たるとの確約を取ってきたのだ。
 翌日兄は、石井本家の泰助(当時二十七歳)さんと連れ立って、一切の事情を父に次のような計画を知らせた。それは違法な利息を要求する野川氏との関係を絶つことであり、そのためには残債務全額を正当なものに直し返済してしまうことであり、その返済は三澤藤太氏から借りて返済しようというものだった。
 このことを父に承諾を受ける前に話を進めたことに、父は顔をつぶされたと思いたいそう怒ったが、違法な利息を取られている事実を話し、傷痍軍人会の対応も話するうちに父も全容が理解できたとみえて若い二人の意見に任せると言うことになった。幸い三澤藤太氏は平素から兄の真面目で誠実な人柄を知っていたので通常金利を下回る年利八分という条件で肩代わり融資をしてくれた。野川氏側も傷痍軍人会が相手ではこちら側の条件を承諾せざるを得なかった。かくして悪徳ともいえる野川氏との縁もやっと切れた、肩代わり融資をしてくれた三澤氏との条件はつぎのようなものであった。
一、仁太郎の恩給、年金のうち恩給を返済に当てる、年金は生活費に当てる、利子は年利八分(八%)とする。
二、 仁太郎の死亡に備えて終身生命保険に加入する(保険金額は二千円とする)
三、 恩給及び生命保険金は受取人は、債務返済が済むまでは三澤藤太氏とする。
以上の条件で取りまとめられた。
 三年五ヶ月後には返済が可能になるとの確証を得たのである。ちなみに恩給は年額五百五十円、年金は年額百二十円である、父もこれで一安心というところだったと思われるが、しかし、どうしてこのような多額な借財がたまってしまったのだろうか?大家族とはいえみんな働いて仕送りりはしていたのだし借地とはいえ作物も作り、豆腐も作り売っていたのだ、当時では、田畑を相当持つ自作農家でさえ現金収入は乏しかったが、わが家では年金も、恩給ももらっていたのに不思議に思い母に尋ねた。当時としては数少ない年金・恩給受給による現金収入があったがために、平素から親交のある知人、友人から頼み込まれお人好しの父は断りきれずに保証人になってしまった。返済不能になった人の返済の肩代わりをさせられたのである。その上に利殖話にのり、遂には高利貸に金を借りてしまう。と言うようなおきまりの借金地獄に入ってしまったためである。自分が使うために作った借金ではなく他人の保証をしたためにできた借金であることを、母はしみじみとした口調で打ち明けてくれたので、私たち兄弟も父に対する不信感もすっかり溶けたのである。
 このようにして二十年間積もり積もって苦しめられた借金の問題をやっと全面的に解決するめどがたったのである、そして、長兄の俊雄は婚期をやや過ぎた長女エイは別として、次女カツ、三女琴江、には家計の内情をつぶさにうちあけて、せめて借金が返済されるまでは働いてくれるようにと申し伝えて了解を得て、みんなで協力し合うことを確認しあったのである。
 私も兄も家業の農業に励み自給自足体制を計るべく、兄は奈良下講中の大地主である土志田修吉氏に交渉して字助太郎谷戸に二十数年間使わずにあって荒廃していた雑木林を借り受け開墾した結果、耕作総面積は畑五反(千五百坪)、田んぼ三反五畝(千五十坪)、まで拡張でき、米麦はもとより野菜類、特に大・小豆は自家製味噌、醤油をつくり、米の裏作に油菜を植えて菜種を取り、業者に頼み食用油をしぼり、主食、副食、調味料はほとんど自給することができるようになった。父仁太郎は生活のゆとりもできてきたので張り合いが出たのであろう自ら進んで、今まで引き受けていた区内の役職などを人に譲り、農作業の手伝いなどに精を出すようになったのである。私も慣れなかった農作業もすっかり慣れ虚弱だった体力も普通の若者と同じようになっていたことも自覚し始め自信も付いたのである。