こどもの国誕生・母の病気・こどもの国の開園・新築計画

こどもの国誕生

 妻が二年の入院生活から帰り自宅療養にはいって間もなく、昭和三十六年三月中頃、勤務先の田奈火薬廠が近く接収解除されて日本政府に返還されるらしいという噂が奈良町の人々のあいだで話題となり始めていた。噂は噂を呼び、基地が返還された後は国有地だから、ご結婚された皇太子殿下(現平成天皇陛下)のご成婚記念事業として将来日本を担う少年少女育成のための楽園になるとか、イヤイヤそれは埼玉県の朝霞基地後にほぼ決まったとか、ここは返還されずに引き続き米軍と日本の自衛隊の共有実弾射撃場になるとか、まことしやかな噂が流れていた。 
 地元である奈良町民の総意としては、基地の返還がなにより先決であるから、地方行政機関(神奈川県、横浜市)に対し返還運動をということで、地元代表団を結成、返還運動をした。二十数回の陳情に及んだがなんの反応も得られなかった。止むを得ず神奈川県知事の内山岩太郎氏に直接、東京の在日駐留米軍総司令部に出向き返還交渉をしていただいたのだが、そのつど米司令官はノーコメントの一点張りだった。万策尽きた地元代表団は、土志田晋吉氏にお願いして藤山愛一郎に依頼することを最後の手段としたのである。
 土志田晋吉氏は若い頃から長年にわたり藤山愛一郎氏の私設秘書を務めた人であり、当時もその家族の方々とも親交を続けておられる人であった。藤山愛一郎氏は当時知らぬ者はないほどの大物政治家であり将来の総理候補の一人でもあったほどの人物である。土志田晋吉氏は地元代表団の願いを快く引き受けてくれて、代表団ともども上京、藤山氏に交渉役をお願いし快諾をえたのである。米駐留軍司令部は藤山氏の要請と提言を即座に受け入れ、日本政府に対して基地の返還、解除、明け渡しの諸条項を確約してくれた。
 この朗報に地元の町民は大変な喜びようであった。そして間もなく、開放後の国有地を(面積約三十万坪)整備改造して、皇太子殿下ご成婚記念事業として『国立こどもの国』の設立が決定した。
 一方、私達たち駐留軍に勤める者は、またまた人員整理による失業かと思ったが、基地内で働く労務者は他の基地へ配置転換し引き続き雇用する、警備員、消防員で四十五歳以上の者は配置転換、再就職は当分のあいだ不可能であろうから、本人が承諾、希望するなら政府側で引き続き雇用するので各々で申し出るようにとの通達であった。このため、再就職を申し込んだ十名のものが雇用された。私、井組政一、井組金作、の地元同僚は無事残ったのである。
 こうして皇太子と美智子妃のご成婚を祝しての国民的事業『国立こどもの国』の建設が急ピッチで開始されたのは、米軍基地の残務整理が完了した昭和三十七年三月頃からであると記憶している。同じ年の四月三十日のことだ、急いで建造された管理事務所の管理責任者の厚生省から転勤してきた緒方英雄氏から突然の通達で、「ただ今、宮内庁から厚生省の方へ電話があり、本日皇太子殿下と妃殿下のお二方がお忍びでこどもの国の現状をご視察にお出でになるので、諸君は服装を整えてお迎えするように」との示達だった。といわれても私達の様な下級職員などには整えるような制服とて無い時期であったので、大急ぎ各人は通勤用の服装に着替えたのだが、皆バラバラの格好だが帽子だけは厚生省の守衛用のものを支給されていたから揃っていた。
 かくして一同の者たちは緊張して待つうちに午前十時ごろ、両殿下がご到着された。ご一行は三〜四台の自動車でお出ましになり、中央の黒い高級車から先にお出ましになった皇太子が妃殿下のお出ましになるのを微笑を浮かべてお待ちになっていたのがとても印象的で、車から離れて私達の二〜三メートルほどのところで帽子を取り深々とお辞儀をして両殿下をお迎えしたのである。お美しい妃殿下は私達に至るまで、一人一人にお優しい笑顔で会釈して下されたのである。そして、両殿下はジープにお乗りになりご視察のため用地内を一巡され管理事務所でしばしの休憩をされ、お帰りの際にも妃殿下は「きょうは本当にご苦労様でした」とお声をかけて帰りの車にお乗りになった、私にとって人生最良の日とでも言える一日になった。
 米軍基地も返還になり、こどもの国として生まれ変わる工事が進みだした昭和三十六年五月ごろ、奈良町の主だった顔ぶれからの連絡で、本日午後七時より奈良小学校において、助太郎谷戸全域を譲り渡してくれるようにとの話が、小田急電鉄事業部から申し込まれたので、助太郎谷戸の関係地主はぜひとも集合してくださいとの初めて耳にする言葉であった。
 私も小さいながら地主の一人で、畑三百三十坪、田八十坪、雑種地九十坪の合計六百坪を該当地に所有している戦後の開放地主であった。小学校で行われた説明会において、小田急側から三名、奈良町の顔役四名、地主三十五名ほどが出席した。話の要点は助太郎谷戸の土地十万坪を小田急電鉄不動産部に売却するかどうかというもので、小田急の説明によると、奈良町は国立こどもの国建設用地でもあり、小田急線の玉川学園駅にも比較的近く住宅地としては魅力的なところであります。もし皆様の土地をわたしどもにお譲りいただけるならば坪当たり四千円で買い取らせていただきます。ですがそれ以上の価格をお望みならばこの話は無かったものとして頂きたい。というものであった、地主側からの付帯条件などを認めないかなり強引な者であった。それほどの自信が小田急側にあったのだろう。明治維新以来土地の買収などということがなかった地域において降って湧いたような話に、一〜二の地主を除いて、買収に応じる地主がほとんどだった。その後一度の会合をしたのみで交渉は成立し契約完了となったのである。その後小田急電鉄と住宅公団により大規模な造成が行われ、公団奈良北団地とその周辺の小田急住宅団地になり現代に至っている。そして、小田急に売却した代金と米軍田奈火薬廠からの退職金、手元の貯金を合計すると三百万年近くの蓄えが出来たのである。
 また、米軍基地からこどもの国に移行するに際しても職員としてそのまま採用されたので、職の不安がなくなったことは有りがたい事であった。

     母の病気

 昭和三十九年夏、私は家の前の田の草取りをしたあと昼飯に家に戻ると手足を洗って家の中に入ると、妻はまだ食事の仕度もしないでいる、年老いた母を布団に寝かせて心配そうな顔つきで、母の下腹をさすっているので「どうした?」と声をかけると「ばあちゃんは下っ腹が痛むというんですよ」と妻が言う。先ホトの朝飯の時は家族四人で朝飯を済ませたばかりであった、母は今年八十歳になっているがすこぶる健康で、昭和二十三年に父仁太郎が死亡した時以来病気らしい病気もせず、妻が発病した時も、気丈に家庭を支えてくれていたのである。私は急いで野良着のまま自転車で中恩田の井出医院に急ぎ、母の様子をつぶさに告げ来診を頼んだ。 
 その結果診断は急性盲腸炎ということだった。井出医師は化膿止めの注射と腹痛を留める粉薬を置いて帰った。その夜は痛みも薄らぎ、夜中には静かに眠りについたと添い寝した妻から聞いて安心した。だが翌朝になると再び痛み出し、昨日よりも痛みが増したというので、井出さんに再び往診を依頼した。医師は再び痛み止めの注射をしてもらい痛むところを氷で冷やし静かに寝ていれば二〜三日で治まるだろうと医師は言って帰った。しかし、四日、五日と経過しても腹痛は治まらず自力で立ち上がることすら出来なくなった、また来診してくれた井出医師は「八十歳の高齢なので手術しないで直そうと思いましたが、化膿し始めたようなので手術しないと無理でしょうという判断になり、井出医師の往診用の車で長津田厚生病院へ救急入院して即日、手術をしてもらうようになったが、交通事故で重症の患者が運び込まれていたのでその手術の後でやりましょうということになった。
 母ツルが入院した事を知らせたので、私の姉妹たちはつぎつぎと病院に駆けつけてきたが、「手術中関係者以外入室禁止」と張り紙のある扉の前で待つしかなかった。
そんな時がどのくらい経ったのだろうか、手術室の扉が開いて「患者の家の責任者の方がおられたらお一人だけお入りくださいとのことなので、私は中に入った「貴方が石井家のご主人ですかお母さんの患部は、盲腸炎ではありません盲腸には何の異常もありません誤診でしょう、ごらん下さい病原は腫れ物です、それも最近出来たものではなく相当以前からの大腸肉腫です。今となっては部分的な手術では無理なので、大腸の切断をしなければなりません、このとうり患部は十センチほど化膿しています」と切り開かれた下腹部から引き出された大腸に細長く腫れた紫色の患部を見せられた。「手術をするかしないかは貴方の決断によります」と言われた、私は少し考えてから、手術してもしなくても助からないなら、一か八か手術をしてもらおうと決断し「先生切ってください」と言い切った。そして渡された書類に署名捺印して、廊下で待っている妻や姉妹に告げた。
 一時間、二時間過ぎても終らない、長い夏の日差しが西に傾きかけた頃、5時三十分ごろようやく三時間に及ぶ手術が終わり手術室の扉が開き、寝台に乗せられてやつれた白髪頭の母が全身白い布で包まれて姿を現した。重症患者専用の固執の寝台に移された母は全身麻酔のためか昏々と眠り続けている。手術室に呼ばれた私達に見せられた長さ二十センチ位に切断された大腸は化膿して変色した部分だった。「手術は成功ですが、患者は老体の上、想像以上に衰弱しており二〜三日の経過を見なければ生命の保証はいたしかねます」との事だった。その晩から私達や姉妹たちが交代で付き添い、回復を祈ったのである。
執刀してくれた医師は東京の東大付属病院から派遣された医師で外科専門医である黒田医師という方だった。その日は日曜日だったので救急病院以外では入院手術は出来なかったろうたまたま交通事故の重症患者のために緊急派遣されていた腕の良い先生だという黒田医師に執刀してもらえたことが幸したのかもしれない。 
三日目の峠を過ぎてからは徐々に回復に向い、術後の経過も順調に経過し、四週間余後には退院した。そして病理検査をしたが悪性のものではなかった。
 やがて、私達家族、親戚、近隣の人たちが驚くほどの回復をし健康を取り戻した。
 
     こどもの国の開園

 母が手術をした翌年、昭和四十年五月五日、こどもの日の天候は見事な五月晴れの中央広場で待ちに待ったこどもの国開園式が盛大に開催された。広場の中央に新設された借りの建物内が皇太子殿下妃殿下一行をお迎えする場所であった。私達一般職員は式典場の幕の開閉及び式場の整備三名、ほかの五名は神奈川県警から特派された警官と共に不測の事態に備えての警戒であった。私は式場の整備、横断幕の開閉係であったのでひき開けられた両側の幕のあいだから皇太子殿下、妃殿下のお姿とお顔を拝見する事が出来た。
なお当日は、佐藤栄作首相、神田厚生大臣、愛知文部大臣、徳安郵政大臣、の各氏が、東東京都知事、美土路朝日新聞社長ほか多数の方々が参列されたのである。また、式次第進行役に黒柳徹子坂本九があたった。
開園日の入場者数は約十七万人(神奈川県警調べ)となり大変な人が来園した、まだまだ緑深かった当時、いつもは静かな奈良町に突然降って湧いたように人が溢れた。まだこどもの国線が開通していない時で、横浜線長津田から歩く人の長蛇の列が、米軍基地の時まで使われていた引込み線で、その時は使われていない線路伝いにノロノロ歩きでつながった。
 多摩田園都市線の開通もまだであり、国電長津田からバスで来るか車で来るかしかなかった。国道二四六号線を左折あるいは右折して約三.五キロの砂利道を走るとこどもの国に着くのだが、この日は三〇〇〇台ちかく駐車できる駐車場が満杯になり、道路に駐車待ちの車が溢れた、そのため車を乗り捨てて歩く人まで現れた、そのためバスも動けない、こどもの国から国道二四六までじゅうたいしたという騒ぎになって収拾がつかないという大変な騒ぎになった。電車で来た人たちはそのため開通前のこどもの国線の生い茂った雑草を踏み分けて難渋しながら歩いて来る人たちがこちらも溢れたのである。このような混乱の中で開園を迎えたこどもの国はこのような施設がなかった時代に現れた新しい形の娯楽施設としても全国のモデルとなっていった。
米軍基地変換後からの三年間は子供の国建設中だったのでその間の維持管理は横浜市に委託していたので、その間私達は横浜市の職員として勤務した。その間の園長は横浜の野毛山動物園長、染谷建朗氏が兼任されていた。四十年五月五日の開園は駆り開園であった。正しくは昭和四十一年六月、特殊法人こどもの国協会法が成立し十一月正式に特殊法人こどもの国協会が発足し現在に至っている。 
 そして私達は市の臨時職員から腫れて同協会正規職員として再採用されたのみか、同協会雇用規定である六十歳定年を二年延長の特典を与えられたのである、それのみか給料も大学卒業者の五年勤続者と同じになった。私は五十三歳になっていた、そして正式な管理者は厚生省家庭児童局になり私達は準国家公務員の待遇になったのである。                          
 初代園長は朝日新聞社業務担当重役、矢島八州夫氏が就任した。奈良町出身の職員は井組政一、井組金作、私の三人だけだった。開園翌年には東急電鉄こどもの国線が開通、常陸宮殿下、妃殿下をお迎えしてこどもの国線開通式が行われた。
 昭和四十三年六月には、学習院初等科二年におなりの浩宮様の遠足の付き添いで、美智子妃殿下が礼宮様をお連れになり、学友とご一緒にお越しになられた。私達は警備をかねた改札係であったので、二日前から妃殿下御一行がこられる事は管理事務所から聞いていたので、妻や母にそのことを伝えて正面広場前で、妃殿下ご一行がお通りになるのをお待ちするように伝えておいた。   
 当日、ご一行は十時ごろお付になり駐車場に止めたバスよりお越しになられた。私は皆様に園内案内図を手渡しする係りであった。付き添いの父母の中には私の差し出す案内図などには見向きもしない人もおられたが、美智子妃殿下は微笑みながらご自分の方から手を差し伸べられ受け取られた。そのようにして一日無事に仕事が終わり満足して帰宅してみると、母と妻は次のようなことを知らせてくれた。二人は一般入園者と共に入口正面の陸橋下で待っていたのだがお見えになると、母と妻はは深々と頭を下げると、その姿をご覧になられた美智子様は行列を二.三歩離れられ、母の前にこられ優しい笑みを浮かべて「おばあちゃんお元気で何よりですね、お体を大切にしてくださいね」とお言葉をかけて下されたそうであった。母は涙を浮かべながら私に話して聞かせた。天皇は神様であるという時代に成長した母にとっては今生の置き土産と言うところだろう。
 昭和三十三年から十三年間、闘病、治療生活を続けていた妻も完治したという相模原国立病院の主治医中村医師の判断も示され、外来治療にも終止符が打たれて、やっと結核との縁も切れたのである。何よりも母は涙を流して喜んでくれた。

     新築計画

 昭和四十四年、私は勤めも安定し生活にゆとりらしいものもでき、照洋も二十四歳になるので食事以外のことは自分でするようにしてもらうことにし、五十七歳になったので仕事をしながら田畑をすることはもう無理であると決断した。そこで井上博良さんからの借地他も返したあと、自宅前の田んぼ百五十坪を埋め立ててもらい畑にし、前々からの畑と続けた三百坪の一枚の畑にし、翌年、共栄産業株式会社(現大正産業)に貸したのである。こうして農作業は終止符を打つことにしたのであった。
 やっとわたし自身の念願に向けて計画を進める時期に来たと思い始めたのである。それは、明治時代に初代石井の祖母トクが建てた家を貧困のため建てかえることも出来ずあばら家同様になってしまった家を、直しなおし使っていたがこのあたりでこの母屋を取り壊し、新築したいと言う思いである。それとなく妻や母に言ってみたけれど、「父ちゃんは家へ入ってくれてから、他所の人のように旅行にも行かず、うまいものを食うわけでもなく、金を貯めてつぶれかかったこの家をアッチコッチ直し、裏の物置まで人が住める用にまで作り変え、水道まで引いて、今じゃあ風呂も石油で沸かすほどになったし、それに他所より先に冷蔵庫や洗濯機も買ってくれた、この母屋も草葺屋根をトタン屋根にしてくれた、それに土台や柱まで新しい者にしてくれた、このままでもあと十五年や二十年くらい使えるよ。照坊もデザインの学校まで出してやったんだから、あれももう自分の事はやっていけるいい若い衆になったんだ」「もう何も心配はない父ちゃんだってもういい歳だ、勤めだって後何年もあるわけじゃあないんだし、トシだって丈夫な身体じゃないんだから、余計な事を言うようだが、新しい家を建てるほど金が貯まっているんなら、年寄りになったときの用甲斐(ようがい・生活費)に積んでおくほうがいいと思うがね」というのであったが、私は母の心根はよく解っていたし、ありがたいと思っていたが心中に期した方針は変えなかった。というのは過去二十四年間、古い家屋はアッチを直し、こっちをいじり、している間に新しい家が建つほど費用もかかった。この先もまたいじり続けなければならないだろうと判断したのだ。いっそのこと建て替えたほうがサッパリするという想いがあったので、新築計画を着々と実行に移していった。上のうちの大工、鳥海さんにお願いし図面から検討が始まった。母や妻には黙っていたつもりだったが、そこは近所の事筒抜けになっていた。
 母は「ヤッパリ新しい家を建てるのか、わしはこの歳になるまで、新しい家屋に住めるのは初めてだよ、ありがたいことだが、お前も大変だろう」と呟くような声で言ったのである、昭和四十七年九月末のことだった。
 母八十七歳、妻トシ数え年五十四歳の年である。