追悼記
●仁太郎さん
おじいさんです私が三歳の時なくなりましたので記憶にありません。
日露戦争で中国に行きました絶望したことがあったので、
戦死するつもりだったそうです。
かの有名な二百三高地の白襷隊(しろだすきたい)として
ロシア兵との白兵戦でも死なずに生き残りとして帰国しました。
肝っ玉の座った人だったのだろうと思います。
この戦場で生き残った人は奇跡といわれたうちの一人です。
明治天皇より金鵄勲章が下付されました、
恩給や年金などもたくさん支給されたといいます。
地獄を通り抜けてきたせいか無欲になり、
生まれつきの人の好さも加わりおだてられ、
英雄扱いにもなり人の保証人になりだまされ借金を背負わされたので
とても貧乏になりました。
そのため八人の子供たちは大変苦労をさせられたと、
おばさんたちに散々聞かされました。
喘息持ちでしたので晩年は臥せていることが多かったといいます。
鏡を見て「死相が出ているからきょう俺は死ぬ」と言って、
本当にその日に死んでしまったそうです。六十五歳でした。
感謝。合掌。
●おツルさん
私を育ててくれた祖母で、明治十八年生まれです。
新潟の新発田のある藩主の家臣の次男の娘でした。
父親は廃藩置県のとき退職金のようなものを元手に、
横浜に移住し貿易の仕事を始めましたがそれなりに成功したそうです。
おツルさんの母が早世したので、養子に出され貧しい仁太郎さんに嫁ぎました。
「世が世であればお姫様だよね」とおばさんたちは冗談を言っておりました。
私が生まれたときからずっと育ててくれた人です。
白髪がとっても美しい人でした。
基本的な教育は受けていたので新聞が読めました。
いつも微笑んでいたような記憶しかありません。
いくらお礼を言っても足りないくらい可愛がってもらいました。
八十歳で大腸を三十センチも切りましたがのりこえました。
八十八歳で老衰で亡くなりました。
感謝。合掌。
●ホントのお父さん
この写真は満州(中国)の病院でのものです。
日本陸軍の兵士で満州にいたとき結核になりました。
優秀な人で、小学校も満足にいってないのに軍曹にまでなったのだそうです。
1942年に帰国し、結婚しました。1944年に私が生まれました。
1945年2月に結核が悪化し死にました。私は六ヶ月でした。
合掌。
●満州での父の恋人。
まだ満州にいたときの父の恋人でした。
女優さんだったそうです。どうりでとても綺麗な人です。
父と結婚して一緒に日本に行くといいましたが戦争に負けることを予想した父は、
病気でもあり混乱する日本に暮らす事の困難を知っていたので、
泣く泣く別れたのだそうです。この話は叔母が泣きながら話してくれました。
合掌。
●産みの母親
貧しい農家の長男に嫁ぎました、生家はソコソコ裕福だったようです。
父が貧しいながらとても優秀な人だったようで、
母の父親に見込まれたのだそうです。
三十歳ソコソコで私を抱え、未亡人になったのを見かねて、
仁太郎とおツルささんが再婚を進めたようで私が四歳のとき再婚。
私は祖父、祖母がとりあえず育てる事にしたのです。
やがて幸夫さん夫婦が実家に戻るかたちで私の両親となりました。
再婚した母は一男一女をもうけ育てました。
性格のよい義理の弟妹は仲良く家庭を支えましたが、
晩年の母は脳梗塞に倒れ横たわ ること十年。
義弟夫婦に手厚く看護を受け病院で亡くなりました。
合掌。
●幻の叔父さん
なまえを敬敏さんといいます、私の産みの父の三人兄弟の一番下の弟でした。
小学校の成績もとても優秀でしたので上級学校に行けるように
学費も出すからと担任の先生がおじいさんを説得したのですが
実現しませんでした。
とても正義感の強い人で、できのいい人だったようです。
二十一歳ソコソコで兵隊にとられフィリピンのレイテ島で
全員玉砕のメンバーの一人でした。
最期は戦死とは言うが餓死だったようなのです。
日本軍に見捨てられて食料の補給を断たれたようです。
そんな話を事あるごとに、父や、祖母、叔母さんたちから聞かされていました。
みんな話しながら涙を流していました。
合掌。
●幸夫さん
私の産みの親の弟で私の育ての父です、私が四歳のとき養父になってくれました。
子どものいない夫婦だったとはいえ、敗戦時の貧しく、
混乱した時に私を人並みに、あるいはそれ以上に育ててくれました。
米軍キャンプのガードマンとして、「こどもの国」になってからは、
警備員として働きながら、農業をし真面目で忍耐強く、
貧しくてできなかった勉強を独学で克服した人で、
努力を惜しまぬ、信念の強い人でした。
七十歳過ぎに病弱だった妻を亡くし急に元気をなくしましたが、
やがて自分史を書くことで回復し元気に戻りました。
晩年はもう何も望むものはないという心境になり、
淡々と庭掃除などをしてすごしておりました。
九十歳を越えてすぐ病になり入院し、三か月の入院後、
病院で息をひきとりました。
大した介護もできなかったのに最後は苦しい息のなかで、
「もう何も言い残す事はない、ありがとう」といってくれました。
最期の朝はもう意識はなく息も止まっていましたが、
心臓はまだ止まっていない状態でした。
私の妻が「おとうさん、ご苦労様でした」と声をかけた途端
心臓のモニターの音とグラフが止まりました。
感謝。合掌。
●おトシさん
私の育ての母です、私が四歳のときに母になりました、
はじめはなつかず苦労した ようです。
とても優しい人で、献身的に夫に添い姑に仕えました。
祖母とも本当の親子のように仲がよく和やかな家庭でした。
しかし慣れない農作業や家事をやり無理が重なり、
私が中一の時結核になり長い闘病生活に入りました。
それ以来何度も入退院を繰り返す辛い生涯を送りました。
それでも退院している時は忍耐強く家事をささえ、
暗い家庭にはすることはありませんでした。
最後の入院の時はさすがに嫌がりましたが、覚悟を決めたように家を出ました。
病院ではことのほか元気を取り戻したような様子だったので、
身内や親戚の人は安心していったん引き上げました。
私だけ病院に残りましたが、その夜の三時ごろ病状が急変し、
呼吸困難に陥り、医師を呼ぶ暇もなく、
両手で虚空を探るように掲げて息が止まりました。
当直の医師や看護婦がかけつけて蘇生の処置をしましたが、
蘇生することなく私一人が見守る中永眠しました。
感謝。合掌。