追 記

追 記

 ここで父幸夫のノートは終っている。当然続きを書こうとしたのだろう、そのためのノートも用意されてはいたのだが八冊目のノートには手がつけられてはいない。その後の様子は主客が入れ替わる、私という表記は石井照洋つまり石井幸夫の息子という事になる。少しややこしいが母とは幸夫の妻トシであり、祖母とは幸夫の母ツルという事になる。すべての事柄が私(石井照洋)側から見たことになるのでそのつもりでお読みいただきたい。
 この手記のお終いで書いているように、父の計画はそのまま実行され翌年の四十八年春には完成を見た。家族は新しい家での生活を始めた。そんな矢先祖母が寝込んでしまう、建設中の疲れもあったのかもしれないし、安心して緊張が解けたのかもしれない。いずれにせよこれと言うべき原因も無く新しい家の床に着いた。父母や娘に看護され近くの病院から医師の往診を受け、老衰ともいえる体力の衰えによる衰弱死に近い死を迎えたのである。
 八十八年の人生ではじめて住んだ新築の新しい畳や木材の匂いの中で最後の仕上げと言うべき時を息子や娘、孫たちに手篤く見取られて大往生をとげた。

 本乗妙鶴信女(ほんじょうみょうかくしんにょ) 
 昭和四十八年五月七日 俗名・石井ツル         享年八十八歳       合掌。

 谷戸の多い山村であった奈良町も世の中が高度成長と共に変化して行く過程に沿うが如くに変化してゆく、幸夫が売却した田畑周辺は小田急不動産と住宅公団により大規模な開発が行われ奈良北団地と小田急住宅団地に生まれ変わり、道路整備、その他インフラが瞬く間に整備され、周辺都市より多くの人々が移住してきて、人口も増えた。そして、TBS緑山スタジオが出来、緑山という住所が出来た。
 私達の家はこどもの国とスタジオの中間地点になった。父幸夫はこどもの国定年後も嘱託として勤め七十歳(昭和五十七年)まで勤めていた。その間私は結婚、昭和五十三年長男、五十四年には次男が生まれ、幸夫と母トシは長男と次男に「じい、ばあ」と呼ばれて孫たちを可愛がっていた。特に父母は石井家初の養子でワはない嫡子に大変喜んだ。そして、次男が生まれた時に私達が住んでいた裏の離れと父母たちが住んでいた母屋との交代を提案され、私達はいいといったのだが「遠慮するな」との一言で私達が母屋に、父母は離れにという暮らしになった。
 母トシは長い闘病生活で痛めた身体は病名はつかないが気管支喘息気味なものになり、リュウマチは両手首を痛めるようになっていたが、孫を相手にすることによって気も紛れていたように平穏な日が続くかに見えたが、それもそんなに長くは無かった。少しずつ体力が失われていった。リュウマチがだんだんひどくなり、喘息のような胸苦しさも増していったようだった、いわゆる膠原病による症状に苦しむようなっていた。近所の医師の往診は受けていたが、それでも医師のすすめる大きな病院での検査は受けようとしなかった。長い病院暮らしの中でもうあのような身になるということは今生との別れだという思いが強かったのだろう。我を張らない人にしては珍しく言うことを聞かなかった。しかし、孫の相手も出来ないほどになり、一晩中咳が出て苦しむようになった。父も付きっ切りで世話をしていたが「病院へ行こう」との言葉に、母は覚悟を決めたように頷きそのまま相模原国立病院へ入院した。
 家族、親類縁者はもう駄目かという思いで病院に見舞ったが、その日は苦痛も訴えず以外に元気なところを見せた。そのうえご機嫌も良く冗談めいた事さえ言った「これならまた退院できそうだよ」ということで夜になると皆さんは安心して帰路についたのだった。念のため私だけ病院に残る事にした。
夜に入ると昼間の疲れが出始めたのか、少し具合が良くないような様子だった。何か飲むかと聞いたところスイカが食べたいと言うので看護婦に聞いたら、いいでしょうと言うので少し食べさせた。「冷たくて美味しいよ」といいながら少し食べた、そのまま少しの間は寝ていたようだったが「気持が悪くなった」と言い出し「ああー苦しい気持が悪い」というので私はあわててナース室まで告げに言った。「わかりましたすぐ行きます」という返事を聞きながら母のベッドに戻った時、「ああー苦しい」と両手を虚空に伸ばし何かを掴むようなしぐさをしてそのまま息絶えた。ほんの五分くらいの間の出来事だった。すぐに医師と看護婦が飛ぶように駆けつけてくれて、人工呼吸などを懸命にしてくれたがそのまま帰らぬ人となった。
 定徳院妙寿信女(じょうとくいんみょうじゅしんにょ)
 昭和五十八年七月九日 俗名・石井トシ       享年六十五歳             合掌。

 妻を亡くした父幸夫は、離れの方で一人気ままにすごすというのであったが、四十九日をすぎるあたりから寂しそうになった。そのため夕食は皆で食べようと提案し父も母屋にきて食事を一緒にするようになった。私は家でデザインの仕事をしていたので全員で食事時間が持てたのである。その際父は私の妻や孫たちにどのようにして生きてきたかなど聞かせるようになっていた。
 その話の豊富さと苦労体験の貴重なものを感じた妻美千代が、「お父さん今話しているような事を書き残したらどうですか、そうすれば私達も後でゆっくり読ませてもらえるから」という提案をした。そのとき元気をなくしていた父がやってみるかいって始められたのがこの記録である。目標が出来た父は精力的に書き始め、元気を取り戻した。昭和五十八年〜平成一年まで延べ八年間を使いコツコツと思い出しながら記したのである。元来が勉学好きな人だったので性に合っていたともいえるのだろうが記憶が克明である。                    
 昭和から平成になるまえは、バブルの頃で、横浜市の計画道路の実施が決まり、宅地の一部と、協栄産業改め大正産業に貸していた土地が収用になるため市との交渉や何かで父も忙しくなってきた。そして母屋部分も収用になるため移転をし新築家屋で同居しようという事もあり、その準備や交渉でまた忙しさが加わった。そんなことで手記もぷつんとしたような終わり方になったのだろう、だが書くべきことは全て書いていると思う。後は私の追記のために書く事を残しておいてくれたのではないかとさえ思えるのだ。
 道路の交渉も無事に終わり平成二年今私達が住んでいるところ、以前の家から三百メートルほど緑山スタジオに近くなった谷戸の一角に移転することにした。そして新しいところでの上棟式の祝いの席では、とても上機嫌で親戚や隣組の人の世話をしていた。父の部屋は彼の望みどうり総ヒノキの柱で完成し、同居生活が始まった。
 その後、老人会にも参加しそのお仲間と家で茶話会をしたり、散歩をしたり、家の回りの草むしりをしたり、悠々自適生活を楽しんでいるようだった。一緒の食卓では四人になった孫たちに昔話をするのが楽しそうだった。テープレコーダーのように同じ話しをすることが多かったが。八十五歳をすぎた頃からだろうか最近出来た地域ケアプラザのデイケアを利用するようになり、迎えに寄ってくれるマイクロバスに乗り込む時は楽しげに見えた。ケアプラザでは明るく社交的で、冗談も飛ばすので皆さんに好かれたようだった。
 そんな生活が数年続いていたが八十八歳のときだったか、年の暮れ風邪から肺炎を起こし、重症だと医師から言われ緑協和病院に入院し油断ができない状態が続いたが徐々に回復し三ヶ月後には医師や看護士が驚くほどの回復をし退院したのである。
 それからの父はだいぶ体力も無くなり、週二回のデイケアに行く事以外は散歩もしなくなり、ベッドからテレビを見たりラジオを聴く程度の日常になった。食事も部屋に運んでくれというようになり、だんだん横になっていることが多くなっていった。
 九十歳の初秋、ケアプラザの方から足がむくみだしているとのことでそのまま近くの緑協和病院に再び入院した。前回の入院で相当抗生物質を与えられていたので体全体の抵抗力もなくなっていたし高齢でもあった、腎臓が機能低下で今度は回復は難しいと、主治医に言われてはいたが本人には伏せていた。病室のベッドでの父はうすうす感じるものがあったのかも知れなかった「俺はもう充分やってきたし思い残す事もない、ありがとう」と私や妻、父の妹などに言っていた。
 二ヵ月ほど経った頃から容態が思わしくなくなり重態になった。一週間ほど苦しい状態が続いた後意識が無くなったが、心臓はまだ停止していなかった。
 十二月十九日朝、医師から最後の面会を言い渡され、私が先に行きついたときは息はしていなかったが心臓のモニターはまだ心停止はしていなかった。一足遅く来た妻美千代が「お父さん長いあいだご苦労様でした、もう楽になってください」と声をかけた瞬間、心臓のモニターが静かに止まった。
「ご臨終です」と医師が言った。

 平成十五年十二月十九日
 石井幸夫(戒命はなし)      享年九十歳  合掌。

 こうして、父の死後、六年目の初春、やっと気になっていた作業を終えることが出来た。石井家の嫡子とはいえ自分の子ではない私を大切に育ててくれた人に対して今更ながら、人間を育てるのは人間以外ないのだなという感想をもつ。
 父幸夫と共有する時間を五十年以上持ったことになる。私が養子になってからしばらくは「父ちゃん、母ちゃん」と呼ばなかった数年間があったということを祖母から聞いたことがある。
 いま、私は新しい家庭の主人公として生きている。その底流にはこの記録に残されたような記憶があるということを、次の世代である息子たちはどのように捕らえるのか興味のあるところだが、直接聞くことはやめておこうと思っている。

                                                  (完)