百年の記憶
このストーリィは大正二年生まれの父石井幸夫が生前、八年間の時間をかけ明治時代から平成にかけてのわが家の歴史を記したもので、聞いていたことや自分が経験したことをノートに書き残したものを、息子である私石井照洋が整理したものです。 ま え が き 倅…
出生から少年期まで 私は大正二年七月二十三日の生まれだが翌年には第一次世界大戦が起こり、日露戦争終結後九年目の年回りだが国の財政は悪化し不景気で、わが家も小作農家でありその日その日をやっとの思いで暮らす一般の家庭と変わりはなかったが、幸い父…
母の生家と父 母ツルの実家の父、加藤定蔵と言う人は文久終わりか天保の初めに生まれた人のようで明治維新のときは二十二〜二十三歳だったろうということである、故郷は越後の新発田で五万三千石の大名、溝口藩主の家臣の子弟であった。姓は赤松氏ということ…
屈辱と謝罪 やがて第三十六銀行の頭取石田某なるひとが工場へ乗り込んできた。氏は専務取締りとして工場の経営その他一切の権限を収め、会社再建を全株主(創業時からの総支配人及び相談役等)に申し渡すとともに、男子従業員全員及び主だった古参工女、養成工…
独 立 そこで私は、次男坊の俺はもうこれ以上家にとどまる必要もない、ゆくゆくは独立して一家を構えなければならないと考え、早急に働くところを物色していたが当座の準備金がいる。そこで同じ村の若い人たちと一緒に資産家の三澤藤太さんの屋敷の宅地造成…
見合い 同じ年の二月下旬、思いがけない人から結婚話が私に持ち上がったが、兄がまだ独身で野戦病院に入院中のことでもあり、「弟の私が兄より先にそのような話は受けられない」と断ったのだが、父母の方が乗り気になりその話を受け入れた。醜男(ぶおとこ)を…
長子誕生と俊雄の死 しばらくして、兄俊雄が健康を取り戻したので、兄嫁ヒロさん、父母、わたしたち夫婦もひと安心と言うことになった、間もなく兄嫁も予定日を迎え無事に男児を生んだ。祖父になる仁太郎は内孫が男だったので大いに喜び、大切に所持していた…
ひらめき 心の底からありがたかった、これで助かった。 アー良かった、無理を承知で一か八かあたって砕けろだ、駄目ならまた何か考えればよい、そんな思いが届いたような気がした。私はあらためて井上博良さんに深々と頭を下げ、それまでの非礼を詫びたが、…
就 職 気持が落着いてくると考える事は、これから先家族五人の生活の事だった。小規模ながら自作農になり食料の確保はほぼ自給の体制は揃ったという強みは持ったが、現金収入が途絶えた状態にある、小額でも良い何か現金収入を得ねばならないと思案を巡らせ…
実家の蘇生 義父の葬儀も過ぎ、四十九日の法要にも妻と参列を済ませる頃はもう春だった。井上氏から借りた田んぼの田植を済ませ、休む間もなく大矢さんの田植を手伝い春の農作業が終わって一息する頃には六月になっていた。久方ぶりに生家を訪ねた、父母もよ…
追 記 ここで父幸夫のノートは終っている。当然続きを書こうとしたのだろう、そのためのノートも用意されてはいたのだが八冊目のノートには手がつけられてはいない。その後の様子は主客が入れ替わる、私という表記は石井照洋つまり石井幸夫の息子という事に…
こどもの国誕生 妻が二年の入院生活から帰り自宅療養にはいって間もなく、昭和三十六年三月中頃、勤務先の田奈火薬廠が近く接収解除されて日本政府に返還されるらしいという噂が奈良町の人々のあいだで話題となり始めていた。噂は噂を呼び、基地が返還された…
あ と が きこの手記は私の養父、故石井幸夫が妻トシを亡くして一時元気をなくし手持ち無沙汰にしていることを心配した私の妻、美千代が提案して、乗り気を出したのがきっかけではじめられたものである。 共にする食卓での昔話を幾度となく聞いていたことも…