母の生家と父・二百三高地、白襷隊

    母の生家と父
 母ツルの実家の父、加藤定蔵と言う人は文久終わりか天保の初めに生まれた人のようで明治維新のときは二十二〜二十三歳だったろうということである、故郷は越後の新発田で五万三千石の大名、溝口藩主の家臣の子弟であった。姓は赤松氏ということだが長男ではなかったので、同じ藩の加藤氏に相続人がないこともあり養子縁組をして加藤姓になったようである。加藤氏の禄高は百二十石の知行取りだったそうで、禄高五万三千石の田舎大名の家臣で百二十石取りの家柄といえば中くらいの格式の武家であったのだろうと思われる。加藤定蔵となった元赤松定蔵は剣術の腕は相当に優れていたといわれる。
 年号が明治とあらたまった。三百年余の徳川幕府も終焉を向かえ、明治新政府が発足、廃藩置県廃刀令発布、士農工商身分制度の廃止、とたてつづけに新制度が動き出すと武士階級の解体が進んだ。 旗本、大名とその家臣たちは一時に家禄を失い、不安な政情の世間に投げ出されるという事態になったのであるがツルの父、加藤定蔵も奉還金という明治新政府から支払われた武士の退職金の様なもの六拾円也を支給され越後新発田をあとに維新後首都ととなった江戸改め東京に出てきた。そして、少年の時から修行に明け暮れていた剣術の腕を生かして、東京の華族邸へ別当職として採用された。別当職とは主家の用心棒あるいは私設ガードマンのようなものだったようだ。さる華族別当職を得た加藤定蔵は二十四歳になった頃、同じ華族邸に花嫁修業(行儀作法見習い)のために武州奈良村(現、横浜市青葉区奈良町)から上女中(上女中とはお座敷女中、下女中とは勝手働き女中をいう)として奉公に来ていた関根カネと好意を通じる仲となりやがて人目を忍ぶ仲となり相思相愛となったようだ。
 時にカネ女、十九か二十歳だった。関根カネの生家は神戸(ごうど)の上という屋号の関根姓の農家であり中くらいの地主だった、定蔵とカネは周囲の人の心配や忠告にもかかわらず手に手をとって新興の地、横浜に移り結婚した。横浜での二人の暮らしぶりは仲睦まじくともに働き助け合っていたという。夫、定蔵は武家上がりの身であったが、奉還金とその後貯えた資金を元手に古物商として居留地の外国人の商館にも出入りして商売を広げて生活にもゆとりが出来るまでになった。近隣や町内の信用を得るようになり、商いの合間には近隣の若い衆に剣術の稽古をつけるようになるほど心身の余裕をえた。
 横浜に移り住んで十二〜十三年が過ぎる頃には二男一女(男・勇之助、次男・忠蔵、長女・ツル)の親となっていた。妻のカネの末の妹夫婦、奈良村にいる石井弥三郎(仕事は経具師)、ムメ夫妻とも親密に交際をしていたようである。華族屋敷から駆け落ちのように横浜にいく際に、里方の兄、石井市次郎の怒りを買ったが、その後の精進がみとめられ、再び里方とも親交を温めるようにもなるのもさして遠くはないという矢先だった。順調に家庭をはぐくみ楽しい日々はつづくと思われたが、妻カネが突然の病に倒れたのである。夫定蔵の懸命の看病、医師の努力も空しく結婚以来、十三年間ともに苦労を分け合って助け合い、励ましあった若い夫婦の願いも空しく、妻カネは明治二十年七月二十日早世した享年三十四歳だった。残されたのは夫定蔵、長男・勇之助、次男・忠蔵、長女ツル、の四人だった。
 明治二十二年三月、石井の地親類の本家石井織造さんの肝いりで早世したカネの三番目の妹夫婦石井弥三郎、ムメが保証人となって加藤ツル(四歳)は祖父母、石井園吉、トク夫妻の養女に迎え入れられたのである。 その九年後、明治三十年、祖母トクは実兄の鴨志田林造さんから通称、金左衛門畑と呼ばれていた土地を買い受けて家を建て定住して現在に至っている。(横浜市緑区奈良町一八九六・昭和五十八年現在)それから二年後、明治三十二年、新潟県新発田郡、士族、加藤定蔵長女、加藤ツル(十五歳)は神奈川県都筑郡、平民、石井園吉、トク夫妻の養女として入籍、晴れて石井ツルとなったわけである。比較的恵まれた環境で育てられたようで、当時の貧しい山村部落の子女、ことに貧農の女子は無学文盲の人もおおかったが貧しくてまともな教育を受けられなかった事情による。
 明治五年に新政府の法令により学制が敷かれ義務教育制度が発令された。それまで富裕な家庭の子弟のみが学ぶ事ができた寺子屋制度が廃止されたのであるが、男子は別として女子はその多くの子は小学校を途中でやめてしまうか、入学すらしなかったというのが貧農地域の実態であった。そんななか母ツルは尋常小学校を卒業させてもらっている。ツルはまた行儀作法など義母トクより習い裁縫なども他家に通わせてもらい習得し、当時、先進的技術といわれた糸繰りの技術まで習得させてもらっていたといい他家の娘さんに教えるまでになっていたという。 
 ツル十九歳の春二年間の約束で、お下女中(勝手働き)ではあるが華族の屋敷に奉公に行く事になった。明治三十七年、日露戦争開戦の年である。その華族は当時の台湾総督で後、勲功により大勲位・勲一等・功一級子爵、陸軍大将、西完次郎のお屋敷であった。後年、アメリカ、ロスアンゼルスオリンピックの馬術競技で金メダルを獲った西武一(にしたけいち)騎兵中尉は西完次郎氏の子息である。
 そんな折、養母トクより至急電報が届く生家の横浜市大田の長兄勇之助に召集令状が届き東京の第一師団歩兵第一聯隊に入隊したという、すぐお屋敷に申し出て許しを得て横浜の生家に急ぎかえったが長兄は既に入隊の後だったので父定蔵に連れられ東京麻布の歩兵第一聯帯をたずね、四歳のときに別れ別れになった兄に再会した。それが兄との最後となった。その四ヶ月後、長兄勇之助は中国旅順の二百三高地の白兵戦で戦死をしてしまった。日露戦争開戦で横浜市出身者の最初の犠牲者だったといわれているが、のちのちツルは自身の子供たちにそのときの別れのことを折に触れ涙を浮かべ声を詰まらせながら話して聞かせた。
 ツルの父加藤定蔵は日露戦争が終った翌年、十三歳の連れ子を持つ年若い女性と再婚したが定蔵の次男忠蔵との折り合いが悪くなり、忠蔵は突然失踪しそのまま行方不明になった。また定蔵も再婚の妻子ともうまく行かず離縁をし晩年は、旧藩時代の親友であった池上市次郎の家で独り寂しく死んでいったとの知らせを受けたため父仁太郎が遺骨を引き取りに行ったというが、ツルの父定蔵も不運の人だった。
     二百三高地、白襷隊
 いままで母ツルの周辺といきさつを追っていたが、そろそろ伴侶となる父石井仁太郎の周辺を追ってみよう。父、石井仁太郎の旧姓は加藤であり田奈村(現奈良町)に生まれ育った。加藤家は代々の農家で半自作、半小作で父は多一郎といい母はイマといった、姉兄弟は長女イネ、長男兼吉、次男仁太郎、三男増五郎、の三男一女だった。仁太郎四歳のときその母イマが早逝した、その後シマという人が後妻にはいったが継母シマさんは質素で温順で好人物であったようだ、シマは八歳を頭にまだ幼い四人の子供たちを家事をこなしながらも過不足なく養育したようで親子よく和合して協力しながら義母シマの温かい人柄に包まれて、みな成人したようである。
 次男仁太郎は二十歳を迎えた明治三十六年度の徴兵検査で甲種合格して、翌年、明治三十七年勃発した日露戦争に向け現役兵として東京麻布の第一師団、歩兵第一聯隊・第二中隊に配属されて、第一期の検閲である三ヶ月の初年兵教育を終了後、ただちに出征の命令が出され、宇品(うじた)港より出港し、朝鮮半島の鎮南甫港(ちんなんぽこう)に上陸した。そのまま、満州旅順の戦線に参加し第三軍団長、乃木大将指揮下の一平卒として旅順要塞の前衛陣地である鉢の木山の敵陣攻撃に初年兵ながら始めての決死隊の一員として参加した。その後、日露戦争史上に残る悲惨な戦いの末、陣地を勝ち取ったといわれ後年映画にもなった二百三高地に参戦し膨大な死者を出したその戦いで貴重な生還者となった。
 戦後、そのときのことを子供たちに話したところによると、二百三高地の戦闘でのことで後年語り継がれた白襷(しろだすき)決死隊なるものは、後年の人びとによる作り話であったようであり二百三高地にある敵陣は小高い丘の様な裸山で木もなく平凡な丘だった。第一次攻撃隊の主力は大迫尚弘陸軍中将の指揮下にある北海道第七師団の精鋭でこの部隊は高地の中腹まで匍匐前進(ほふくぜんしん)し、中腹より、突撃ラッパを吹き鳴らし肉迫攻撃に移ったときに、山上の敵陣地から突然ロシアの新兵器である機関銃の一斉放射を浴びて日本の兵士はバタバタと倒れて死傷者の山となった。仁太郎は第二次攻撃隊の第一師団歩兵第一聯隊の枝吉宇太五郎中佐の指揮の元、敵陣北側の背面の斜面をよじ登り敵の背後から肉迫して白兵戦を展開し、やっとのことで高地頂上の陣地を奪い聯隊旗を立てて万歳三唱をしたのだという。この戦闘により、日本とロシアの兵士の戦死者は二万数千人に及んだという。
 戦闘が静まった後、日本、ロシアの兵士たちはたがいに軍使を交換し白旗をかかげて戦死者の遺体を収容したのだったが、日本側の戦死者だけでも千坪を越えるところに収容し切れなかったという事である。その後、旅順戦線における最後の戦闘は、ロシア軍が四年の歳月をかけたといわれる難攻不落の要塞といわれた松樹山保備砲隊(しょうじゅさんほびほうだい)の攻撃に決死隊中の決死隊と後々まで呼ばれた特別編成聯隊があった。それは志願ではなく第三軍団の各師団の歩兵聯隊のなかから、特に選抜された決死の攻撃隊員として参加し夜襲をかけての白兵戦のために日本軍同士の相打ちを避けるために目印として、三尺五寸〜四尺の白い晒しの布を右の肩口から、左のわきのしたにかけて結び敵の前衛陣地に突入して白兵戦を挑んだ。
 仁太郎は白兵戦の最中敵の手留弾をうけて重傷(右目失明、全身に八箇所の傷を負う)を負い野戦病院に収容されたのである。そのような激しい戦闘で負傷を負いながらも生き残り帰国し東京の陸軍第一病院、氷川町分院で療養中、皇后陛下の行啓を賜り、その際一兵卒の身でありながら、特別個人御下問(お言葉)を親しく賜るという破格の待遇を受けた、そのことはたびたび子供たちにはなして聞かせたが私もはっきりと憶えている。
明治三十八年、日露戦争は日本の勝利で終焉を迎えた。
 加藤仁太郎は戦功により歩兵二等兵から二段飛び特進の歩兵上等兵の栄誉を受け、勲八等桐葉章および功七級金鵄勲章(きんしくんしょう)を賜り、兵役免除、傷痍軍人として終身特別恩給、ならびに金鵄勲章の年金を受ける身となったのである。
そしてその翌年、明治四十年、加藤仁太郎は石井ツルとの縁談がめでたく整い、これという財産もないが評判の良い石井定蔵、トクのもとに婿入りという形で結婚したのである。