実家の蘇生・兄嫁の再婚・新生活・冷たい対応

     実家の蘇生 
 義父の葬儀も過ぎ、四十九日の法要にも妻と参列を済ませる頃はもう春だった。井上氏から借りた田んぼの田植を済ませ、休む間もなく大矢さんの田植を手伝い春の農作業が終わって一息する頃には六月になっていた。久方ぶりに生家を訪ねた、父母もよろこび、ことに母は妻の里方の父の死を悼み慰めごとを言ったりしていたのでその間、父と二人で家の外回りを見て歩き、荒れ果てたというより朽ち果てたというべきほどに傾きかけた母屋を見て、なんとも言えなかったが咄嗟に思ったことは、兄が亡くなって二年半、年老いた義父母、三歳の子供を抱え、里方からは復籍されては困ると言い渡された兄嫁ヒロさんの立場を思わずにはいられなかった。
 妻を一足先に返したあと久方ぶりに父母と話をしていると、町内会長の土志田晋吉さんがひょっこりと訪れてみえた。土志田氏は戦後、多数の町民からの強いての要望で戦後初の奈良町町長を引き受けた人である。若干三十七歳の町長は人望のあるインテリで、日大政経学部を出た若手町長だ。土志田町長は父に就任の挨拶を言った後「実は先日、田後万五郎さんから聞いたのですが、幸夫君、君は生家に戻ってくれと頼まれたそうだが、例の旧軍用農地配分の話はどうなったかね、貴方もあれこれ随分運動していたらしいが」というのである「土志田さん、今となっては万事終わりですよ責任者の三澤重元さんに突っぱねられたので、ほかの誰も相手にしてくれなかったですから」と答えると「イヤイヤそんな事はないさ今からでも遅くはないよ、幸夫君キミが百姓になる気があるのなら俺が万事引き受けてやってもいいんだがそれにはひとつ問題があってね、いや難しいことではないんだ」と次のような条件を話してくれた。
 小作農家が自作農家になれる条件の第一は、昭和二十年十月二十日以前に一反(三百坪)以上の面積を耕作していた農家に限られる事。第二は引き続き農耕を維持できる事を確認できる事の二項目を地区の農地調整委員会事務所において認めたる者によるとの条件であった。私は即座に「ありますあります、親父さんが以前借金をして、抵当流れにしてしまった、かまど谷戸の畑で一反二十四歩を終戦の年まで私がやっていました、今は井組勇吉さんが作っていますが、昭和二十年に私から井組さんに耕作権を渡した農地です。上講中の人なら皆知っていますよ」とまくし立てるように私はいった。
 土志田さんは笑いながら「それは良かった、それで条件は揃ったよ、ヨシ!近いうちに俺が農地調整委員会事務所のほうへ報告するが、君が以前この家で耕作していた畑で、地主に返していないのがあるのならこの際届けだす方が良い」というので、父に聞いてみると土志田さんの本家の畑、一反二畝(三百六十坪)三澤藤太氏の畑、四畝一歩(百三十坪)その他八十坪、合計四百七十六坪がいまだ返していないというので土志田さんに伝えると「それは良かったな、どうせ不耕地主の畑は全部小作者に開放するようにGHQから指令があったのだから、俺は本家だろうと三澤家であろうと関係なく開放になる。田畑だけでなく借地している宅地も、開放農地を得たものはこの際買えるよ」「奈良町の農家でも五、六軒の農家がそうできるよ」といってくれた、わが家の窮状を知ってくれていたのだ。私たちは町長に深々と礼をして感謝の言葉を言った。
 その後、昭和二十二年九月末、港北区農地調整委員会田奈地区事務所からの正式な通知があり、農業従事専任者として私ははれて自作農家としての夢が実現したのである。くわえて、奈良町農地委員である井汲嘉平氏の好意ある提言により、荒廃地ではあるがわが家の南側前面の土地三百六十坪の旧軍用地が私名義の農耕地として分け与えられたのである。これはとりもなおさず、土志田晋吉町長の配慮により実現した事で土志田氏のご恩は終生忘れてはいけないことである。
 他方、姉エイの嫁ぎ先である加藤正一が字助太郎谷戸(現奈良北団地)の田んぼ百八十坪を分けてくれたので、我が家の所有地は宅地を含めると五反歩(千五百坪)程に成ったのである。農地の買受代金は私が現金払いで払った。合計金額四千円をすませて、祖父母以来、小規模ながら、初めて名実共に自作農家としての一歩を踏み出したのである。           
     兄嫁の再婚

 私はその日を境にして石井家の荒廃を蘇生させるのは自分しかいなくなったし、この苦境からの脱出は私の肩にかかっていることを強く自覚したのである。私はその日住まいに戻り、一人これからのことを思案しよい方策を探ろうと思索を凝らしたのである。三日、四日、七日と瞬く間に過ぎていったが妙案が浮かばなかった。
ふだん私は良く話す方だが、さすがにこのときは黙って考え込んでいたので妻も心配になったのだろう「貴方のように誰にも相談しないで、独りで考えていると、いつまでたっても埒が明かないでしょう、気分晴らしにどこかへ遊びにでも出かけたら」と言われて、それもそうだと思ったが急にどこへ行こうにも行くあてがない、がふと浜谷君はどうしてるかなーと思いながら『ハッ』としたのだった。私が駐留軍の人夫の仕事を辞めてからは会っていなかった。いまどき珍しい真面目な男で一図気合は下手だが、へんに如才なく立ち回るよりいいだろう兄嫁ヒロさんより三歳年上の三十かちょうどいい。ヒロさんに再婚の気があるのなら浜谷君の様な人ならまず間違いない。そうだ、まず浜谷君に結婚の意志があるかどうかを短刀直入にきいて見てはどうだろうと心に決め妻には言わず家を出た。
 夕方彼が仕事から戻るのを見計らい、下宿先を訪れた、
しばらく雑談したあと話題を変えて、結婚話をした。彼は突然の話にとまどいながら顔を紅くしながら私の顔を見て「じつは私も最早歳も三十一だから結婚はしたくないわけではないのですが」「私のような無一物のうえに、これといって取り得のないよそ者の風来坊に、好き好んで結婚の話を持ってきてくれる人などひとりもなかったんですわ、石井さんが初めてでした」と関西訛りでとつとつと話し始めた。
 生まれたところは兵庫県である、家族は両親と弟、妹の五人で、農家である。母は一人娘で家付き娘だったので父権太郎は婿養子である。自分は尋常小学校を卒業してから、就職しようと役場で戸籍抄本をとったら、婿養子である父権太郎の籍に浜谷秀雄二歳、庶子入籍と記載されていたので、そのときから父は実父ではなく、養父であると知った。母が最初に産んだのは私であることはまちがいない、なぜ二歳になって入籍したのかが疑問だった。四歳のとき弟が生まれてからは母はちょっとした事で私を叱ったり、叩いたりしたが、父がいないときは、私を強く抱きしめながらさめざめ泣いていたことが度々有ったというのである、話しながら思い出したのだろう浜谷君は声を詰まらせ、涙ながらに途切れ途切れに話してくれた。
 「私は兄嫁には再婚の話はまだ話したことはないが、君が結婚の意志があるなら縁談を進めようと思うのだが、後日、君の気持を聞かせて欲しい」と腹を割って話した。少し強引かもしれないとは思ったが気持がそうさせたのだった。
 三日後私は生家へ出向き、父母を交え未亡人の兄嫁に再婚の意思があるかどうかを聞かせてもらえないかと聞きただした。非常識なことかもしれないが、私としては兄嫁自身の考えを知っておかなければならない、この先が進まないという想いがあったのである。
 しばらく誰も話しはしなかった。時折幼い甥ッ子照洋の片言の声以外は何もいうものは無かった。父に隣に座っていた母がポツンと「ソウソウお茶でも入れようかね」と独り言を言いながら腰を上げようとしたとき、兄嫁ヒロさんは決心したように俯いていた顔をあげて、父母と私のほうへ向いてハッキリした口調で「私はこのまま一人身を通したくありません、私のようなものでよかったら縁があれば再婚したいと思います」といささかのためらいもなく、クッキリとよどみなく言い切ったのである。私は心中ホッとした『俺はきょうこの様な行動を取ってよかった、あたって砕けろとはこういうことか』と思った。私はあらためてヒロさんに頭を下げた「ヒロさん突然に来ていきなりぶしつけな事を聞いて済まなかった。でもこのことは責任を持って進めますから、このことは女房以外には話さないし、女房には口止めしておくから信用してやってください、ヒロさんも俺がこんな話に来たことは自分の心の内に納めておいてください」と約束しておいて住まいに戻ったのである。
 亡き兄の連れ合いのヒロさんは、僅かの間の夫を亡くし幼子を抱えているがまだ若い二十七だ。この先長い人生を一人身で過ごすのは残酷だ、健康なよき伴侶を得て暮すのが最もいいのだろうとの思いから、動き出したこの数日間が随分長く感じられた。今からはグズグズしてはいられない、とそれから二日後の日曜日、浜谷青年と兄嫁に我が家に来てもらい見合いの様なものをした。
 その日は私たち夫婦と、ヒロさん、浜谷青年の四人だけでお茶を飲みながら軽い気持ちでの世間話をしながら短い時間だったが、双方とも笑顔など見せながらの和やかな時間をもてたのである。ヒロさんが背負ってきた照洋も傍らの妻にあやされながら片言の言葉をはなし機嫌よくしていた。この子がいたおかげでその場が堅苦しいものにならなかったのもよかった、見合いもとどこうりなく終わり、これで後は結果待ちという段階にまでこぎつけた。私たちは二人が帰った後ホッとしてかおお見合わせた。それから七日ほど過ぎてから双方の意中を聞くとヒロさんは「私のような子持ちの未亡人でよければ」と浜谷青年は「自分の様な何の取り得もない裸一貫の男でよければ」ということなので目出度い話を進めることとなる。
 昭和二十二年八月、浜谷氏とヒロさんの媒酌人にヒロさんにはヒロさんの長姉の夫、村田義勝さん、浜谷氏は私の姉の夫、加藤正一さんの両人におねがいして、浜谷氏の身元保証人は寄宿先の大家さん鴨志田寅吉さんにお願いして仮親としての立場をお願いして、型どうりの結納を取り交わした上婚約が成立した。私たち夫婦は縁談の取りまとめ役であるので、新所帯の住まいを世話せねばならないと思った。
 ちょうど、旧陸軍兵器学校校舎の片隅にある一戸建ての物品格納庫が空いていたので借りることが出来た。内部を改装すれば粗末ながら住まいには成ると思い、知り合いの大工、高橋哲治さんと言う人に改造をお願いし、押入れ、炊事場、便所などを作ってもらいどうやらこうやら住まいらしい物になった。
 昭和二十二年八月吉日、浜谷秀雄(三十一歳)、石井ヒロ(二十八歳)の結婚式が行われた。
 私の生家で行われた結婚式に参加した方々は新郎の仮親の鴨志田寅吉夫婦、義兄加藤正一、ヒロさんの義兄村田義勝、ヒロさんの叔父田後万五郎、石井の総本家から延良老人、わが家から私達夫婦が父仁太郎の代理としてヒロさんに付き添い、滞りなく済んだのである。式が済むと新夫婦は改造の終った住まいに移っていった。甥の照洋は私の母ツルに背負われて生まれた家である石井家を後にしたのである。
 ヒロさんは亡夫である私の亡兄と約束をしていたと言うのである、臨終間際の亡夫、俊雄は照洋を七歳まではどんな状況になろうと自分で育ててくれという遺言をしていたという。俊雄はまだ若い妻が再婚するということを予期していたに違いない。亡兄は私達夫婦が子宝に恵まれないので我が子の養育を委ねるか、あるいは三男である敬敏に委ねるかを胸中に期しての遺言だったのだろう。照洋は石井家の一粒種で相続人でもあるわけだからヒロさんが再婚した場合、石井家に残す方がよいという判断だったのだろうが、物心がつくまでは母親と一緒がいいだろうという思いだったようだ。
 私達夫婦はヒロさんの嫁入り後は当然私達が引き取る者との思いもあったが、遺言では仕方がないので、母親と共に新居に行かせたのである。四季も終わりホッとしたが、少し時間が過ぎるとなんとなくもの足りない空虚な気持ちになった。今まで小さな甥の存在がわが家のにぎやかしと和みのもとであったが、いま、大人ばかりが残されたこの古ぼけた薄暗い家の中には、ぽっかりと穴の開いたようなもの寂しい空気が流れるだけで、みな押し黙ったまま沈黙の世界となった。ことさら母ツルはとても寂しそうだった。朝起きたときから夜寝かせるまでのあいだ甘えて離れなかった孫の照洋がいなくなったのだから。「おかあさん浜谷さんはすぐ近くなのだから、時々私と一緒に浜谷さんへ行って照坊と遊んでやりましょうよ」と妻がそれとなく慰めを言うと「あんまり度々行くと照坊が浜谷さんになつかないんじゃないかねー」と私のほうを見ながら言うので、「お袋何をバカな事を言ってるんだ、照坊はこの家で産血をこぼして臍の緒を切って生まれ育ったこの家のたった一人の相続人だよ、当分のあいだ浜谷君に預かってもらうだけだから、よけいな遠慮はかえって水臭くないか、遠慮しないで遊んでやりなよ」というと、今まで黙っていた父が「そのとおりだ、幸夫のゆうとおりだ、ばあさんあしたにでも先方へ行って様子を見てきな」と言ったのだった。
 その晩は皆なかなか寝付けなかった。夜も更けてみんなが寝床に入ったのは十二時を回っていた、すると間もなくして表の戸をたたく者がして、あたりをはばかるような声ですみませんヒロです、こんな夜中に起こして申し訳ありません。妻は驚いて急いで玄関の戸をあけた、そのまま外へ出て「義姉さんじゃないの照坊が熱でも出したんですか」と聞くと、照坊は母に抱かれながら泣きじゃくり「ばあちゃん、ばあちゃん」と暗い家の中を覗き込みながら祖母の姿を探し求めているのを見て、うちの者はこらえきれずに鼻をすすり、目頭を抑えずにはいられなかった。ツルは走りよりヒロさんから孫を受け取り両手でしっかりと胸に抱きしめたときには、幼子は祖母の首にしがみつき大声でしゃくり泣きしながら離れようとしないので、祖父の仁太郎は「今夜はとりあえず子供は家で預かる、お前は結婚早々にあまり長居をしてはいけない早く帰りな」とヒロさんに言って家の中に戻った。ヒロさんが言うには照洋は日没からは、何一つ口にしないで祖母の姿を探し求めて泣き止む事がなく、ここに来るまでずっと泣いていたのだということだった。
 次の日の午後、母ヒロさんに連れられて新婚夫婦のもとに帰った照洋は「お家へ帰る、お家へ帰る」と言い続けて泣き止まない、新婚夫婦も困り果て途方にくれていたので、心配で見に寄ったツルが「病気にでもなると取り返しがつかないから、当分家にあずかろう」ということになり照洋は生家へ連れ戻されたのである。
その日から、幼子照坊は「かあちゃん」という言葉を一切口にしなくなった。
 生後六ヶ月で実父に死別し、三年後には生母の手からも別れてしまった幼い甥っ子がたまらなく不憫だった。
その後の照坊は片時も祖母から離れようとしなかった、祖母を放さなかった。幼子は祖母に抱かれて安らかにあどけなく安心したように夜よく寝るようになった。生家に住む者たち皆があどけない寝顔を覗き込み安堵の胸をなでおろしたのである。

     新生活

 自作農家としての資格を得たという喜びは、私のみでなく年老いた両親、ことに父は長男亡き後、収入の源であった恩給、年金が敗戦により支給停止となり現金収入が無くなるという窮地に追い込まれていただけにこの度のことはことさらに喜び、子供のようにその喜びを隠そうとはしなかった「俺はもう六十四だし、喘息病みだから、とても百姓仕事の手伝いはできないだろうから、おまえたち夫婦に食わしてもらえればそれだけで充分だ。よろしく頼むよ」と小さな声でポツリといった。
 長男のあと、三男も失った時から父はめっきり年寄りじみてきたし、気弱になった。そしてもの寂しげな表情を見せるようになっていた。往年の憎らしいくらいの自信と、短気な癇癪持ちの性格はスッカリ影を隠していた。傍らから妻も「大丈夫ですよお義父さんお義母さん、もう田んぼも畑も買い受けたのですから、家の人と私で耕して、以前のように米や麦や野菜を作れば、六人家族が何とか生きていけますよ」頼もしい事をいってくれた。
 妻の実家は今長兄が鍛冶屋をやっている、農作業の道具は皆実家で作ってもらい事欠く事はなかった。当時の農作業はほとんどが手作業であり、農業機械が登場するのはまだまだ先の話だ。そんなわけで食料は何とかなったが、燃料がなかった、石油やガスが使えるようになるまでにはまだまだ十年も十五年も待たねばならない。
 そこで家から一キロほど離れた杉の植林地にリヤカーで行き、杉やサワラの落ち葉や枯れ枝を拾い集めリヤカーに積み持ち帰り燃料にしたものだった。
 戦後のドサクサで物資も不足している時代だからどこの家でも似たり寄ったりの生活をしていた。水は井戸から汲み上げる、風呂はドラム缶、燃料が尽きた時は上のうちの大工さんの家でのもらい風呂などお互いに融通しあいながらの戦後生活はしばらく続くのである。
 昭和二十三年一月下旬、父仁太郎は持病の喘息が悪化、重態になり、どっかりと病床に就いた。当時の奈良町は無医村だったので医師が往診にこられない、が、良くしたもので近所の兵器学校が戦後は引揚者住宅になっている。その一角に戦前まで東京の三井物産で嘱託医をしていた人があった。渡辺先生という、父の診断をお願いしたところ診断の跡で私を戸外に呼んで「長くて一週間のいのちでしょう」と告げられた。父自身もう長くはないことを一番自覚していた。母や私達姉弟妹を枕元に呼んで、私や妻あるいは他家に嫁いだ姉や妹にむかい、かたわらでツルに甘えていた幼児照洋の小さな手をしっかり握り、頭をなでながら、あえぎあえぎではあるがしっかりとした口調で「俺はもう二日とは持つまい、おまえたち姉弟妹たちは幸夫夫婦に協力してこの児を無事に一人前に育て上げてくれ」と遺言を残し、翌日永眠した。
 午後三時か四時ごろだったと思う。簡素ではあったが、告別式を行った、父の死を聞きつけた人たちが多数参加してくれたのがせめてもの慰めであった。

 昭和二十二年一月二十一日 
 新帰元勇徳覚仁居士位(しんきげんゆうとくかくにんこじい) 俗名 石井仁太郎  
 享年六十五歳      合掌。

 父の初七日を済ませると、取るものもとりあえず、家の内外の整理と整備に取り掛かったのだが、なにしろ無い無いずくしのわが家の事、家の中はすぐにかたづき、すぐ家の周りの、買い取ったが荒れ果てている南側の元軍用地の開墾作業に取り掛かった。まず、妻が鎌で雑草を刈り取り、それを一ヵ所に集めて焼き、私が開墾用の大きな鍬で掘り起し耕してマングワで細かく砕き、草や篠竹の根を掘り起して二〜三日乾かし燃やして土を平らにして畑にし、一段低い右側は、危険物(ガラスや瀬戸物の破片)丁寧に拾い集め取り除き、整地して三枚の田んぼにした。その結果我が家の耕作地は、田畑共に整備完了したのである。この年作付けできたのは、水稲一反八畝(五百四十坪)野菜類、陸稲など四百五十坪、合計作付面積三反三畝(九百九十坪)となったのである。
 戦中から始まったわが家に降りかかった様々な災禍はひとつひとつ乗り越え、終戦三年目にしてようやく、のどかで安心できる環境に落着いたのである。六十三歳になった母ツル、三十歳の妻トシ、ツルにつかまっているあどけない照洋三歳、皆喜びの表情を浮かべていた。

    つめたい対応

 昭和二十三年六月、第一復員庁、神奈川県支庁という陸軍の終戦処理事務局からの通知で、陸軍関係戦死者の合同慰霊祭を執り行うので参列してくれとの知らせで、その際故石井敬敏殿のご遺骨をお渡し申し上げますので、田名地区遺族会世話人と同道されたしとの通知が届けられたのであった。
 引き取り場所は横浜市鶴見区豊岡長の曹洞宗大本山総持寺の本堂と決められていた。だが不思議な事に当日同行する田奈区域遺族会世話人である恩田町の福生寺の住職が「石井さん弟さんの遺骨箱を包むには白布でなく、色風呂敷か縞の風呂敷を持参してください。奈良町には進駐軍の基地もあるのでアメリカ兵がたくさん駐留している、いたずらに刺激しても仕方がありませんから日本兵の遺骨に見られないようにするためです」と言う伝言があったが、あまり深い意味とは思わずにそれに従った。
 当日、総持寺本堂での慰霊祭も終わり、各方面から参集した多数の遺族は各々遺骨を受け取り大きな白布で丁寧に包み、首にかけ両手に大きい黒枠の写真をしっかりと持ち、家族や親類の者と思われる人々と共に静かに各々引き上げて言ったのだった。幾重にも積み重ねられた遺骨は総持寺の大きな本堂の天井まで届くほどだったから、何百あるいは何千もの数だったろう、だが一人として色付きや縞の布で包んで帰る人はいなかったのである。縞の風呂敷で帰るものは私一人だけであった。
 福生寺住職と一緒に帰路に着いたが、帰りの車内にもそこここに遺族の人たちが乗っていたが、全ての人が白布で遺骨を包み首にかけ各々黒枠つきの大きな写真を両手で支えていたのである。車内の人々はその前を横切る人は黙礼をして通り過ぎるのであった。それは戦争に若い命を捧げた人の対する慰霊のいみであった。
国電横浜線東神奈川から八王子行きの電車の中で小机駅手前まで差し掛かった時、押さえきれなくなった感情が爆発したのである。私は迎えあわせに座っている福生寺の住職にいきなり噛み付くような剣幕で問い詰めたのである。「ご住職お尋ねしますが本日弟の遺骨引取りの場合、縞の風呂敷か色の風呂敷を持参するようにと貴方に言われてきましたが、その指示をしたのは第一復員事務庁の役人ですか、それとも港北区役所の復員事務関係の係員ですか、あるいは川和警察からの指示ですか。
はっきり答えてください、きょう総持寺に集まった人の中に縞や色の風呂敷に包んで帰った人はほかにいましたか、弟はレイテ島で玉砕したのですよ、二十四の若い命を散らしたんですよ!こんな箱を押し頂いてきても、弟の遺骨さえ入っていないんですよ。余りにも冷たい仕打ちじゃないですか」と言って立ち上がり、縞の風呂敷に包んだ箱を解き遺骨箱のふたを開けた。中には白木の位牌があるのみだった。そしてそれを住職の前に突き出した。六十は当に過ぎたと思われる住職私に深々と頭を下げ「石井さんこらえてください、私の浅はかな考えから貴方にご迷惑をかけ、肩身の狭い思いをさせたことはまことに申し訳ありませんでした。じつは私の長男の一人息子を戦死させました。同じ悲しみを持つ戦死者を持つ遺族ですきょうのところはこらえてください」と謝罪の言葉を言うろう住職の目も潤んでいた。私はハッとした怒りにまかせて怒鳴った事が恥ずかしくなった。「そうでしたか方丈さまも遺族の方でしたか、私のほうこそ人前で大きな声を出した事をお詫びいたします」と詫びたのである。
 住職は「石井さん弟さんのお遺骨箱を風呂敷から出して両手で持ってやってください、そして長津田駅で降りたらこの手ぬぐいで首にかけてやってください」といいながら懐から真新しい手ぬぐいを出し渡してくれたのだった。
 こうして長津田駅で降り、遺骨箱を白手ぬぐいで包み首にかけ、徒歩で帰る途中福生寺の住職とも別れ、やや早足に家路へと向かった。住吉神社の前で左折し五百メートルほど歩くと、駐留軍米軍基地のメインゲートがある。その前に差し掛かったとき、正門警備にあたっているアメリカの歩哨兵がわたしにほうを向いて、ぴたりと両足をそろえ、右手でカービン銃を引き付け、遺骨に向って弔意を表す黙礼をしたのである。私ははっとして歩く早さを緩め頭を下げて答礼をした。日本人ですら気づかずに行き過ぎてしまうのに、米兵が目ざとく気づいてねんごろな弔慰を示してくれた事に感慨を持つのであった。
 亡き弟の遺骨と称された箱は四十九日忌が過ぎてから親類や身内のまえで、位牌だけ入っている箱の中に、以前、最前線から送り届けてきた頭髪と爪を納めて、遺書はこちらに残し、菩提寺である念仏宗の松岳院墓地に埋葬したのである。

 勇徳義山敬勇居士位(ゆうとくぎざんけいゆうこじい) 俗名・石井敬敏(いしいゆきとし) 
 昭和二十年八月九日戦死、行年二十四歳。 合掌