出生から少年期まで・関東大震災・貧苦の中で

      出生から少年期まで
 私は大正二年七月二十三日の生まれだが翌年には第一次世界大戦が起こり、日露戦争終結後九年目の年回りだが国の財政は悪化し不景気で、わが家も小作農家でありその日その日をやっとの思いで暮らす一般の家庭と変わりはなかったが、幸い父仁太郎の終身年金と金鵄勲章の恩給とがあったので極端に困窮する事はなく何とか暮していた。そのときの家族は祖父母、両親、長女エイ、長男俊雄、生まれたばかりの私(次男幸夫)の七人だった。
 七月二十三日はとても暑い日だったというが知らせを受けたとりあげばあさんは予定日より三ヵ月も早く産気づいたお産を無事に終えたが生まれた子は七ヶ月の未熟児で胎袋のままの出産であったという。胎袋を破りとりあげた赤子はぐったりしていて、産声も上げず平手で頬をぺたぺたとたたいていたら三十分ほどしてシワだらけの小さな顔で、やっと猫の仔のような小さな産声を出したという。身体も小さく、普通の嬰児の半分くらいで片方の掌に乗るほどで、それは人間の子というよりまるで裸ネコのようだったとのことである。そのため、二歳を過ぎるまでハイハイもできず四歳を過ぎるまで自力で立ち上がる事もできなかったようでいざりのように腰を引きづって移動していたという。私が生まれてまもなくそれまで風邪ひとつひいたことがない祖母トクが二年越しのブラブラ病(婦人特有の病気だったらしい)になったため医療費がかさみ、祖父母が頑張って買い取った山林五反歩(千五百坪)を売却して医療費にした。そのうえ父仁太郎の名義で三十五円の借金をした。七人家族の貧困な小作農の若い仁太郎、ツル夫婦にとっては過分の負担となった。 
 仁太郎三十余歳、ツル二十七〜八歳のときのようだがその後も私が三歳の時の大正五年に次女カツ、大正七年に三女琴江、大正十年に三男敬敏(ゆきとし)とつぎつぎに産まれ十人家族となり、もともと蓄えとてない一家に借財が加わり極貧の家族となりながらも何とか生きていたが、そんななか仁太郎は何とか現金収入の道はないものかと考えをめぐらせていたおり同じ村の豆腐製造をして細々ながら商売をしていた屋号を四ツ谷という鴨志田四郎という人が「おれは今年中に豆腐屋をやめて百姓一本で行くことにしたが、おまえさんは豆腐屋をやってみようという気はないか」と仁太郎に持ちかけてくれたそうである。「豆腐屋は朝は早いが毎日日ゼネが入るし元手が少なくても済む、その気があるなら俺が作り方を教えよう、また少し古くはなったが道具一式は安く譲ってやろう」といってくれたので仁太郎は豆腐、油揚げ、がんもどきの製法を覚えて大正十年十一月、豆腐屋をすることになった。
 その年、長女エイは尋常小学校を六年生の途中でやめて村内にある裕福な家に子守り奉公に出された。小学四年まで優等賞を受け、副級長を何度も務めて勉強もできた姉だが貧農の子沢山の家の例に漏れず口減らしに義務教育途中で他家に奉公に出されたのである。子守り奉公に行った姉は雇い家で時々珍しい食べ物などをもらうと、自分では食べず私たち弟妹に持ち帰って食べさせてくれたりしたものだ。エイの二歳年下の長男俊雄は家業の豆腐作りに精を出すようになり豆腐作りは朝が早いが毎日四時には父母とともに起き、かまどの火をおこし父とともに石臼をまわし朝飯もソコソコに小学校に行き、放課後、急いで家に戻り家業の手伝いをする毎日であった。物覚えの良い兄は十一歳のときには豆腐、油揚げ、がんもどきなども製法を完全に覚え、父仁太郎を驚かせたという。 
 父も俊雄がよく手伝ってくれるので、生産量も多くなっていったが商いを始めた当初は近辺の人や村中の人、あるいは隣村の人までよく買ってくれたようであるが、一〜二ヵ月もするとその日の内に売り切れず翌日に持ち越すようになってきた。特に豆腐、油揚げは暖かい季節になると持ち越しはできない、その日の内に売ってしまわなければならないので、自宅売り分を残して以外のものは仁太郎が岡持ちを二個天秤棒に担いで周辺の集落を売り歩いて回った。それでもときに売れ残るようなこともあったので自家消費せざるをえない日があるので、兄俊雄は子ども心に売り上げ向上のため一計をめぐらした。大工だった祖父園吉に頼んで子供にも担げるような小さな岡持ちと三〜四尺の天秤棒を作ってもらい、赤土の坂道を登り下りして半里〜一里半の範囲にある岡上や三輪(現、川崎市麻生区岡上・三輪)の農家に行商に歩いたのである。両村の人たちも重い岡持ちを天秤で担ぎ遠い山道と赤土の坂道を越えてきた豆腐屋の行商人が、年端もいかぬ小柄な少年だったのだから驚き同情し感心もしたらしい、そんなわけなのでほかの行商の豆腐を買わず俊雄が担いでくる豆腐屋のものを買ってやれということになり、俊雄の担ぐ岡持ちの豆腐や油揚げなどを待っていて買ってくれることがしばしばだったそうだ。母は小学六年というのにけなげにも重い岡持ちを担いで家を出てゆく後姿を心配そうに見送り、八十一歳になる祖母トクは神棚に手を合わせ涙を流している姿を私は脳裏に焼き付けながらながめていた。
 その年から俊雄は小学校も一学期の五月始めまでしか通学できず欠席が続いたために学期末の七月に担任の野路東作先生が心配されて、父仁太郎に「俊雄君は学業も上位で成績も良いのでぜひ次学期からは登校させてくれるようにお願いします、ついては失礼かもしれないが学用品くらいは私が用意してもいいのですが」と申し入れてくれたそうで、そのときはさすがに頑固な仁太郎も、年若な先生の前に頭を伏せたままあげることができなかったと後年母に聞いた。しかし、その後も家業の手伝いのため欠席せざるを得なかった俊雄は、翌年(大正十二年)の小学校卒業式の当日になったが卒業証書をもらうことができなかった、出席日数が足りなかったためである。ろくに出席もできずにいても学年成績も上位で、よその人々からも頭の良い少年と見られていた俊雄も、貧困の上に兄弟の多い長男として生まれた不運が重なった故の悲しみでもあり能力の高かった人だけに後年までその劣等感を持つとともに発奮の起爆剤として精進努力をしたようだ「何しろ俺は小学校未卒だからな」と度々いっていたのを私は憶えている。
 その年、四月中ごろ同じ村の北ヶ谷戸の井組久治さんのお母さんのムラさんがうちに来て仁太郎に「東京の親戚の薪炭(しんたん)問屋で、小僧さんを二人ほど募集しているが見つけてくれないかとの頼みなのですが、おたくの俊雄さんはどうだろうか、奉公に出してみる気はありませんか」との話だった。俊雄は「夜学に通わせてくれるならいっても良い」という条件を出したがその条件で話がまとまり二十歳に満期開けになるまでという条件で三百五十円という大金を前渡し金として仁太郎は受け取った。年期間契約書、前借金証書に仁太郎が実印を押して渡し、これにより俊雄は東京の炭問屋に年季奉公(雇い主と父母が雇われる当人の意思とは関わりなく期間を決めて働かせる事、その際契約書を交わし、雇い主は契約金を前渡する制度)に出されたわけである。職人、商人、女中、など貧しい家庭の子女は幼い頃よりこうした制度の下に奉公に出るも者も多かった。特に地方の人はたくさんいた。俊雄の奉公先は太田商店という薪や炭などを扱う店だった、そこには同じ村で近所の井組粂衛門さんの四男繁蔵少年も同じように年季奉公で前渡し金を親が受け取り二十歳まで奉公する身であったが二年年長の繁蔵さんは十五歳で高等科二年も卒業していた、後年私の妹の三女琴江の夫になる人だ。
     関東大震災
 二人が奉公に行って間もない大正十二年九月一日、午前十一時五十八分、突如として大地が揺れた、後に関東大地震というまれに見る災害を及ぼした地震である。突如として関東地方の広い範囲を襲ったこの大地震は、当時の記録によれば、地震発生と同時に東京、川崎、横浜、その他市街地は家屋の倒壊が続出し、下敷きとなったり、落下物の直撃にあったり、各所から火の手が上がり火災はあっという間にひろがり、竜巻の様な風が起き、猛火が猛烈なスピードで市街を襲った。逃げ惑う人びとは道路や空き地に溢れる人たちは逃げ場を失い焼け死んでしまう、墨田川など木造の橋は、激震と火災により落ちてしまい背後から火に追われた人たちは仕方なく川に飛び込むよりほかなくほとんどの人が溺れたりやけどをおったりして亡くなった。東京、横浜の繁華街は山手を除き繁華街はそのほとんどが焼け野原になり、地震発生後、三〜四時間で約数十万人の死傷者をだした。
 私は小学校四年生(十歳)だったが、六十八歳の今にも激震の凄まじさをまざまざと思い出す。その日は、午前中で終わり近所にいる友だちのところ(井組粂衛門宅)へ遊びにいっていた、突然ゴーという地鳴りと度叔同時にぐらぐらと大地が揺れて庭で遊んでいた子供たちは足元をすくわれてその場にバタバタと倒れこんだ。粂衛門さんは大声で「大地震だぞー、家の中にいるものは早く外に出ろゥー」と叫んだので家の中にいた家族の人たちも驚き、夢中で庭から道路に通ずる急坂をころがり、よろめき、はいずりながら気がついたときは土手下の道によつんばいになっていた。
 二十〜三十秒おきに地鳴りとともに大地は大きく揺れて、立っていることさえできなかったが粂衛門さんは「土手の下にいては危ないぞー、早く新宅の竹やぶへ逃げろー」と叫んでいたので私たち子供たちはみな先を争い隣の新宅(井組信太郎さん)の竹やぶへ逃げ込んだ。午後四時ごろには余震もだいぶ小さくなり、回数も減ってきたので子供たちはそれぞれの家に戻ることができた。またいつ襲いかかって来るかわからない余震を警戒して家に中には入らず、地盤の固いところや木の下に丸太や戸板を敷きならべ、その上にむしろなどを敷き木の枝に蚊帳をつり蚊や虫をよけ一晩中寝ることもできず野宿していた。夏の暑い時期だったのでまだましであった、明けて九月二日になると余震もだいぶなくなってきたので私たちは一安心であったが、父母たちはそれぞれ子供を都会に奉公に出している身だったので心配だったが、当時のこととて電話、ラジオなどはなく交通網も寸断されていたため、次から次へと入ってくる口伝えの情報が頼りだったが絶望的なものばかりであり流言蜚語(りゅうげんひご)、デマも混じり訳がわからなくなるだけだった。
 私の家では長女エイが横浜に、長男俊雄が東京へ奉公に出ていた。姉エイは井組信太郎さんの次女ツナさん(十四歳)と、横浜市保土ヶ谷町の絹練会社に女工として住み込んでいた。兄俊雄は東京市芝区田町の薪炭問屋、太田商店に年季奉公中であるから双方の安否がきづかわしいものであった。
 九月二日午前十時ごろ三人の父親たちはまだ時々揺れる余震の中を身支度もソコソコに焼きむすびなど非常食を背負い東京横浜の二手に分かれ出発した。その後の私の家のほうでは、午後三時ごろからあちこちから火の見やぐらの半鐘が打ち鳴らされ驚いているうちに遠くから大声で叫んでいる自警団の青年たちが「朝鮮人の暴動だー、女子供は人目につかぬところに非難しろー」と怒鳴りながら走り去ってゆく、次から次と伝令は飛び交い「〇〇方面では女子供が殺されたぞー」「井戸に毒を入れられたぞー、井戸は厳重にふたをしろ」等々パニック状態になった。夜になっても半鐘や釣鐘を打つ音はなりやまず、真っ暗な林の中で父親のいないわたしたち家族はとても不安な一夜を過ごした。翌朝、三人の父親たちは夜どうし歩いて戻ってきた姉や兄たち四人はともに無事であることがわかりホッと胸をなでおろした。
 祖母トクは八十一歳になっていたがその知らせを聞くと、堰を切ったように大声で泣き出し、父母がいくらなだめてもいくら止めても泣き止まなかったのを私は不思議なほど鮮明に憶えているが、暮らしには役に立たなくなった年寄りが家にいて孫たちに苦労をかけている、その老いた身にできる精一杯の感謝の表現でもあったのだろう。姉の勤め先の会社は宿舎ともに全部倒壊し、姉たちは工場大屋根の下敷きになったものの、大屋根を支える鉄の柱によって隙間ができ、ほとんどの人が死傷を免れたそうだ。姉たちはとりあえず交通の復旧を待ってそれぞれの家に帰された。
 兄俊雄と繁蔵さんの二人は幸いにも倒壊にも火災にも免れて被害の出なかった炭問屋の太田商店にそのまま勤めたが、当初の約束だった夜学に通わせるという約束が守られていないことで、俊雄は年季奉公を拒み始めた、父仁太郎は無理押しをすることもできないのでしかたなく村の高利貸に恩給証書を抵当に金を借りて、年季奉公の前渡し金を返済して兄を連れ戻した。大正十三年になっていた。
     貧苦の中で
 翌年、俊雄は川崎市高石(現、川崎市多摩区高石)の農機具製造工場という個人経営の会社に見習い工として住み込みでつとめた。その会社では仕事が終ると夜学に通わせてくれて勉強もでき、月々の賃金も払われたので親元に送金することもできたのである。祖母トクは母のツルに手を握られながら静かに八十二年の生涯を閉じた。
天保嘉永安政、元治、慶應、明治、大正とめまぐるしく変わる波乱の世の中を生きた人だったが、祖父園吉の逝去後十ヵ月であとを追うように永眠した。

大正十二年三月十日
本彰法薗信士(ほんしょうぼうそのしんじ)
俗名・石井園吉 (享年七十五歳)  合掌。

大正十三年一月八日
雲仙妙得真如(うんぜんみょうとくしんにょ)
俗名・石井トク (享年)八十二歳   合掌。

 私はほかの姉兄弟と異なり虚弱体質であったため、幼児より祖母にはひとかたならぬ心配や面倒をかけたので人一倍悲しい思いをしたのである。その後、姉エイは地方の個人の家に糸繰り女工として住み込みの仕事に着き、月々何がしかの賃金を親元に送金してくれるようになった。
 わが家ではあいかわらず豆腐屋をやりながら、他の家から二反歩(六百坪)の畑を借り受けて、雑穀類や野菜を作り午前中は豆腐、油揚げなどの注文つくりをし午後は畑仕事という両面をするようになっていた。私も小学校を終ると手伝いの畑仕事などしたりしていたが卒業した年の初秋の暑い日のことだ、大震災後生まれた四女寿美代(二歳)にせがまれて近くにある借地の畑すみに植えてある柿の実をもぎ取りに登った柿の木の枝が折れて私は落ちてしまって運の悪いことにふるい切り株の上に落ちてしまいスネを骨折してしまった。動けなくなってしまった私を一緒についてきていた弟の敬敏がビックリして父を呼びに飛んでいってくれ、父に背負われ家に帰りそのまま寝たきりで医者にかからずに寝てすごした。接骨医にかかれば二十円位の費用がかかる当時のその金額はわが家にとって多額だったので医者にはかかれずただ家で寝かされていたが二カ月半後、ようやく歩けるようになった時には骨折した方の右足が長くなってしまったようで軽くびっこをひいて歩くようになってしまった。
 生来の虚弱体質の上、軽斜視、鼠径ヘルニア、それに加えびっこである、姉兄弟たちがそれぞれに働きに出て家のためになっているのに、私は家にいて大した役にもたっていない己自身がはがゆくのろまだ片輪ものだ、俺など生まれてこなければ良かったのだと劣等感にさいなまれていたのである。私とて、小学校の成績は奈良分教場の四年生まで常に二番か三番であったし五年六年の本校(田奈小学校)でも、五十六人中いちばん低い時でも十五番か十六番だった、勉学はまあまあだったがゆえに身体的欠陥による劣等感はその頃の私の精神的苦痛はつらいものだった。私は青年期まで、それらのことで劣等感に悩むのであるが、その後さまざまな経験と努力をし自信を得ると同時に劣等感、絶望感、不平等感、を克服し忍耐する力は誰にも負けないという自信を身に付け充実を知ることになった。
 昭和三年三月下旬、次女カツは小学校を卒業すると、東京市西多摩郡青梅町(現、青梅市)の府是製絲工場に見習い工女として出稼ぎに出されることになったがカツはその名のとおりの勝気なこどもだった。工女募集人に連れられて働きに出る娘の中では最年少であったが、なんの屈託もなく家を出るとき一度も振り返ることなく元気な足取りで出て行き遠ざかる妹の姿がいつまでも心に残りその日はなかなか寝付くことができなかった。
 妹カツが製絲工場へ働きに家を出てから、十数日後のことである長女エイを糸繰りの経験工女として募集に来た人で、長津田の新倉五郎松という人が私をみて小僧さんを一人探して世話をしてくれという話を受けていたのでこの少年ではどうかと私を指名してくれ「どうかね」という、そのとき私は嬉しかった、こんな俺でも使ってくれる人がいるのかと。私は進んで行きたいと両親に告げた、しかし、両親はためらっていた。この子に勤まるだろうかと、しかし私は強く希望した、ヨシッ奉公に行ったなら真面目に陰日なたなく働いていけば少しの肉体的欠陥は乗り越えることができるだろうと何度も自問自答を繰り返し心を決めたつもりだったがイザ家を出るときは不安な気持はどうしようもなかった。
 それから三日後、募集された五、六人の女工さん達とともに新倉さんに連れられて奉公に出かけた、そして、森田製絲株式会社(東京市西多摩郡熊川村字熊川・現、福生市)に到着した。その会社は糸繰り工場が三棟からなり一棟に八十台の糸繰り台があり合計二百四十人の工女を擁しほかの製品製糸巻き返し工場一棟には三十人の工女がおり、ほかに煮繭場(しゃけんば)には男女工七,八人がいる合計五ヶ所の建物からなる総合工場でる。各棟には検番(監督)、下検番(監督補)、配繭係り、下働き(雑役)と、煮繭場(しゃけんば)に男女五人、計量係二人がおり、従業員の総数は三百人近い。管理職としては総検番一人。経営陣は正副社長、専務、常務、の四人だった。私は新参者の小僧なので下働きの雑役だった、先輩の小僧さんや古参の人々から教えられるいろいろな作業を一生懸命に憶え骨身を惜しまず働いていたのである。
 新参者の雑役小僧は毎朝五時に起床。作業着に着替えて洗顔、ボイラー係のおじさんを起こし、その足で工場へ入り、八十個の糸繰り鍋に八分目ほどの量の水をいれ、ボイラーから送られてくる蒸気を待つあいだに工場内の板の間を雑巾がけをする、様々な始業開始の準備を終えると午前八時の始業開始のさいれんが高々となり、各棟がいっせいに作業開始となる。
 私たち雑役の小僧連中は八時までに朝食を済ませて、休むまもなく作業に取り掛かる。午後六時の終業時間後は工場内の後片付けと翌日の作業に必要な準備を済ませてから夕食をとり、風呂に入り、自分たちの部屋に戻るのは早いときで午後八時ごろになってしまう、消灯時間後の二日に一度は汚れた作業着や下着類の洗濯をするので部屋に戻れるのは九時三十分〜十時になる。部屋は先輩たちと一緒の部屋で五〜六人の大部屋だ。先に寝ている先輩たちを起こさないようにそっと布団を敷いてやっと潜り込んで一日が終るが脳裏にはふるさとの父母、兄弟、友達の顔を思い浮かべながらこみ上げてくる涙にまかせて眠るのである。やがて慣れてくるようになると、仲間と話すことや仕事に励む日々も楽しくなるようになり精を出して働く日々が過ぎてゆく、そのうち先輩や検番なども「今度きた新入りはよく働くなー」「真面目で思ったより物覚えがいいぞ」などという声が聞くともなしに耳に入るようになるとホッと安心し楽しく仕事ができるのだった。そんな思いになった頃ここにきて二ヵ月が過ぎていた、そんなおり創業四十数年を過ぎていた森田製絲工場は経営不振のため、社長とご子息である副社長が退陣し変わって大株主の八王子の地方銀行、第三十六銀行が経営を担当することとなった。