夢破れて…。  2009/3



 私の記憶にある絵との付き合い、それは私が絵を描き出した頃の懐かしい思い出とともにある。
 小学校三年生の頃だったろうか、少年雑誌にのっている挿絵を模写している姿だ。愛馬の手綱をとる楠正成が描かれているものであった。馬の顔がうまく描けなくて、何度も何度も描き直し、やがて人間の顔よりも馬の顔のほうがうまく描けるようになってとても楽しかった、絵が好きになったキッカケである。また、夏休みに描いた「アカ」という我が家の愛犬とのいきさつがそれを決定的にしたのだろうと思っている。「アカ」が昼寝をしている昼下がり、青桐の木陰がよほど居心地がいいのだろう四股を大地に伸び伸びと投げ出して、こちらに背を向けて庭の片隅の青桐の根元でゆったりと全身の筋肉をほぐして寝ているその姿を私は縁側から描いている。画用紙にクレヨンでしきりに描いている。 
 私は夢中になると上唇をなめるクセをもっているが、その時もさかんになめていたにちがいない。「アカ」の頭の後ろ側からみえる耳の左上のあたりに目をつぶっている瞼があり、その先に黒い鼻があるあたりの何ともいえぬリラックスした感じを描くのが楽しかった。「アカ」は柴犬の茶色なのだが、赤っぽい茶色の中型犬でだいすきだった。私が物心がついた頃にはすでに居て友達だった。当時、私の家には猫も居てこれもかわいかったが、私はいつも「アカ」と一緒だったような気がする。尾っぽを振っていつも私の帰りを待っていてくれた。横浜市青葉区奈良町もその頃はおおらかなもので、村の中を鎖もつけずに畑や田んぼや山の中を自由に遊歩したものだ。「アカ」のことなら何でも知っていたし、とても気の合う仲だった。
 この「アカ」は長生きをした。十六年くらい一緒にいた記憶があるから、それよりも長く生きていた事になる。晩年は(犬に晩年という言葉を使っても良いものかどうかはわからないが)内蔵の病に罹り、腹が膨れていて元気が無くなった。年のせいもあると思ったがやがて衰弱して、離れに住んでいた私の家の玄関の前で横たわって息絶えていた。晩秋の朝日が斜めにアカの死体を照らしていた。
 高学年になってからは絵を描く楽しみが身について、野外の写生を盛んにやっていた。近くの神社の境内の紅葉だったり、玉川学園の校舎を描いたり、校庭から見渡せる限りの風景を描いたりしていた。特に竹やぶの竹を描くのにたいへん苦労したことなどを断片的に思い出す。今ではその時分の絵は一枚も残っていない、私の記憶の底に暖かく眠っている。
 夢中で、無心に描いていた少年の頃の私には描く対象としてのいきものや風景という意識がすくなかったような気がする。それらは私の生活と共にあるものたちであり、仲間であり友達であったような気がる。 
 長じて少しばかり絵の勉強をするようになってから、裸体のモデルだったり、石膏像だったり、風景などを描くようになった。そして、自我や有心がのこのこと頭をもたげてきたのである。他人の絵が気になったり、団体といわれるものに参加し、画壇の動向が気になったりするようになったり競争心がわいてきたり、画家として世の中に認知されることが目的化し余計なものが描く行為のなかに入り込んでしまっていた。そのために描く喜びよりも苦しみ悩みを感ずるようになってしまっていたのだった。
 三十代も終わりになろうとする頃、私はそのことに気がついた。もう一度私は、描く喜びを取り戻さねばならないと・・・深く反省したのである。
                     

 創造とは何なのだろう?
 産業革命以来、洪水のように溢れる工業製品。大量生産による物の氾濫は、農業や漁業、林業にまで波及している。そして現代社会における冷淡で非道徳な行動、強欲資本主義と呼ばれる身勝手な価値観。そう…自分さえよければという冷酷な人間関係を作り出している社会の思想形成に多大な影響を与えていると思うのは私だけだろうか?
極端な話かもしれないが、モンゴルの遊牧民の民は、身辺の道具類として七種類の物しか持っていないといわれる。一方、先進国の民は三千種類のものを持っているという。
 どちらの民も、人間としての生涯を全うし、楽しいこともあり、悲しいこともある。しかも、先進国はなおも大量消費をうながし、多くを求め得る人を裕福といい、そのことが幸福なことなのだという幻想を根強く持っているようだ。本当にそうなのだろうか?
 この星の資源は有限なのだ。大量消費をするためにどれほどの資源と労働を必要とするのか、次々と果てしなく増殖することを繁栄とする社会構造をどうするつもりなのだろうか。それもこれも創造という美名の下に繰り返し行われてきた自然破壊の行為の結果であり次の矛盾への出発点なのだ。
 芸術とてその埒外にあるわけではない。現代美術と称し大量のゴミの山を排出している事ももう片方にある。ほんの短いイベントのために大量の物資を使い自我本位の作品を飾りつけ、イベントが終れば廃棄するという。
多くは自治体主催の地域活性化イベントやビエンナーレにそのような現代美術という名の作品と称するものが垂れ流しの如くに発表されている。
 税金で主催されるこれらのイベントはその費用と、終了後に廃棄される処理とに二重の浪費が行われているのだ。そのような作者のきわめてエゴイスチックな価値観の表現のために行われる税金の無駄遣いが、創造と言う美名の下で狂ったように行われているのが現状だ。
   
 いにしえ… より伝承されてきたゆるやかな営みは、一人、人類の暴走によって急速に終止符を打たれようとしている。これらは人間を欲望の獣と化し、際限のない無知へと向う知的盲目の行為だ。増殖しすぎたねずみはみずから狂騒し海の中へ突入するという「パニック」小説を読んだ事がある。
 今人類は強欲資本主義といわれ、カネがカネを生むという妄想にはまり、突っ走ったあげくとんでもない結末を経験した。そして行く手が見えずオロオロしているように見えてならない。夢破れて山河は荒れ果てようとしている。

いにしえ…へと方向転換せねばならない。今日まで目隠しをして走ってきた私たちは、まず目隠しをはずし。虚心坦懐にその乱れた足跡を見て反省しなければならない。そして、テクノロジーによって奪われてしまった人間の心と技を取り戻す仕事に希望が持てるようにしなければ・・・・・と思う。

 「何も持たぬという人も 天地の恵みは受けている」
 百歳を過ぎても絵を描いていた小倉遊亀日本画家)さんが常々言っていたという。