はじめに・奈良町に定住

このストーリィは大正二年生まれの父石井幸夫が生前、八年間の時間をかけ明治時代から平成にかけてのわが家の歴史を記したもので、聞いていたことや自分が経験したことをノートに書き残したものを、息子である私石井照洋が整理したものです。

                 
     ま え が き

倅(せがれ)の嫁さんの美千代から「お義父さんのこれまでの人生を簡単でよいから、書いてみるようなことをしたらどうでしょうか」と提案された。妻を亡くして間もないころなので寂しい想いもし、いくらか手持ち無沙汰を感じていたときなので、時間つぶしにでも書いてみる事にした。幼い頃、祖父母や両親、近隣の人たちから聞いた話、あるいは自分自身で見たり聞いたり経験したりした事柄など、思い出とともに文字にしてみるのもまんざら悪くもないし、孫たちに書き残しておくのもいいだろうという思いも湧いてきたので、ひとつ挑戦してみるかと筆をとる気になった。
おぼろげな記憶をたどりながらの記述であるし、長い文章を書くことなど今までなかったわけであるから、果たして文章になっているのかどうかはなはだ怪しいものだが老人の独り言ゆえ、読んでもらえればそれで満足だよ。
                                昭和五十八年〜平成一年  石井幸夫




     奈良町に定住

石井家は明治十九年に当時の武州奈良村(現横浜市青葉区奈良町)に定住した。初代園吉は大正十二年三月十日の早朝に七十五歳の生涯をこの地で閉じた。二代目は仁太郎、三代目は俊雄(早逝後は幸夫)、四代目は照洋という家系である。

 初代の園吉は、武州榎戸の人である。現在の川崎市多摩区宿河原あたりという、家業が代々大工職人で次男か三男であったらしく若いとき各地を巡り大工修行して歩いた渡り大工と呼ばれる人のようだ。武州榎戸というと幕末の侠客として有名な清水の次郎長の子分で清水八人衆の一人といわれた法印大五郎が武州榎戸の出だといわれている。祖父の生家の姓は伊藤であり、名前は園吉である。
武州榎戸生まれの渡り職人園吉は、各地を巡った途中、恩田部落(現在の横浜市青葉区恩田町)に足をとどめた折、当時寒村であった恩田部落のある農家に気に入られ婿入りしたそうであるが、辛抱できかねたのか、しばらくしてその農家を出て隣村の奈良部落(現、横浜市青葉区奈良町)に独居していた。そこでも気に入られると婿入りの話が持ち上がり再び婿入りした、しかし、生来の気質か農業が慣れなかったか再び家を出て独居生活に戻り奈良村にいて頼まれるままにあちこちの家の大工仕事や修繕などをして暮らしていた。そのうちに六歳年上のトク(私たちの祖母)と知り合い同棲する事となった。祖母はトクという、奈良部落の農家に天保二年生まれで長じて他村の商家に嫁いだが子宝に恵まれなかった。数年するうちに夫は他に女をつくり商売や家庭を顧みなくなったのでやむを得ず話し合いの末、協議離婚をして生家に出戻っていた。しばらくして、維新後間もない横浜村に出て外国人居留地のなかにある外国人商館に女中奉公として住み込みでハウスキーパーなどをしていたというが三〜四年働きそれなりの蓄えをえて、生まれ在所の奈良部落に戻り生家からさほど遠くないところに土地を借り小さいながら家を建てた。
 その際園吉さんと知り合ったのではないかというのが私の推理である。祖母の生家は維新前より代々続いた農家で、山林、田畑を相当に所有し裕福な家柄であったという、姓は鴨志田といい当主は林造といい祖母トクの実兄である、ほかに兄弟はなく両親は早逝した、そのため若いときから大変な苦労をしながら成長した人だった。

 当時のような時代に都会ならいざ知らずこのような山間の村で、結婚に破れた出戻りであるトクと六歳年下の渡り大工の園吉との同棲は奈良部落の人々の格好なニュースネタであり、話としてはたいへん興味をそそられた事だろうことは想像に難くない。祖母トクは自分の実家の兄、林造からきつく一切の出入りを差し止められ義絶(縁切り)を申し渡されたそうである。
 そんな中でも、若い頃から習い覚えて身につけた裁縫や、糸繰り、機織り仕事で身を立てて生涯独身を通していこうと思い、再婚など考えてもいなかった祖母トクと祖父園吉は紆余曲折の人生の後、正式な夫婦として仲良く暮らすこととなった。園吉とトクの生活は周囲の認めぬままにスタートしたが、互いに仲睦まじく、園吉は大工仕事に精を出し、トクもまた裁縫の仕事に精を出し園吉さんの身の回りの面倒をよくみて、ともに働き小金を貯めるまでになって、おいおい村の人びとに信用を得るようになり、身につけた裁縫などを頼まれて近隣の娘さんなどに教えるほどになった。
 破れたとはいえ商家に嫁いだり、横浜村の外国人のもとで働いたりしたトクは現在言うところのキャリアウーマンの走りではないだろうか、教養のあった人だったのだろう失敗を努力と献身で信用にかえて一家を構えた。
 この祖父、園吉はわたしたち孫のことを大変に可愛がっていた「うちの孫たちはみんな利口者ぞろいだぞ、ヨソのガキはバカばっかりだ」と公言してはばかる事がなく、近所の人々に顰蹙(ひんしゅく)を買っていたらしく、祖母トクや母ツルは近隣にお詫びをして歩いたという。
 その頃(明治十八年)奈良町上講中の戸長(自治会長の様な人)の石井織造さんというひとが祖父、祖母の人柄や暮らしぶりを見込んで何とか力になろうといってくれて、同じ石井家の一類に当たる良三という人が一年ほど前に若死にしたがまだ独身だったので、その故人の苗目(みょうもく)すなわち跡目相続(あとめそうぞく)を継いで石井姓を名乗り上講中に土着したらどうかと申し渡してくれた。その上、上講中の人たちには異存ある者は申し出るようにといわれたそうであるが皆喜んで受け入れてくれた。かくして伊藤園吉、トクは、晴れて石井園吉、トクとして神奈川県都筑郡田奈村字奈良の住民として定住を認められた。
 明治十九年四月中旬のことだった。その恩人というべき石井織造さんとは現在の石井明さんの四代前の人である。その縁をもって、現在石井明、石井勇、石井修二、石井秀雄、と私のところは地親類として付き合いが今でも続いている。そのような経過があり、信用を取り戻した園吉、トク夫妻は、トクの生家との義絶も解け後々まで交際するようになったのである。
 祖父母、園吉とトクは屋号を杉山という井組勇吉さんの土地を借りて建てた家で暮していたが祖父母夫婦は子宝に恵まれなかった、それゆえ数え年四歳であったツルを養女とした。ツルは横浜市南区南太田から迎えられた、そのツルが私たちの母である。