独立・暗い時代・田奈部隊

     独 立
 そこで私は、次男坊の俺はもうこれ以上家にとどまる必要もない、ゆくゆくは独立して一家を構えなければならないと考え、早急に働くところを物色していたが当座の準備金がいる。そこで同じ村の若い人たちと一緒に資産家の三澤藤太さんの屋敷の宅地造成工事の土方に雇われ賃稼ぎをすることにした。日当は日払いで食事つき八十五銭で、雨以外の一ヶ月半働いて貯えにした。その時、農家の関根鶴吉さんが三澤さんの現場を見に来ていうには「実は俺のいとこが川崎の日本鋼管で社内の専属工事の請負業者をしているから誰か行って働いてみる者があるなら、俺が紹介状を書いてやるよ」と言いながら私の顔を見て「お前さんは弟身分だからどうだろう働く気はないかね」と言ってくれたので、私は渡りに船と承知し紹介状を頼み、このことは当分伏せておいてもらいたいと言い添えた。
 数日後、準備も整ったので、初めて両親、兄に出稼ぎに出ることをいい紹介状を見せたのであるが、父母も兄も川崎の日本鋼管の工事場と聞いて何とか思いとどまらせようとしたが、普段は逆らうことをしない私だったがこの時ばかりは頑として決心を変えなかったのでしまいには折れてくれた。
 当時、日本鋼管は日本の重工業のトップ企業であったが『金と命の交換会社』などといわれ、人身事故や傷害事故の多いとても危険で過酷なことで知られていたのである。兄は何とかして思いとどまらせようと「お前が家を出てよそで働きたい気持ちはよく解る、だがあの工場で例えどのような現場で働くのも俺は反対だなー、俺が赤羽の工兵隊にいた時に同年兵とあの現場を見学に行ったことがあるが、あの会社にだけは就職する気になれなかったなー、とても危険な現場ばかりだよ命が幾つあっても足りないと思ったよ」 「工兵隊現役出で上等兵以上の成績で除隊したものは無試験で本雇用の工員になれるが俺の同年兵には一人も希望者いなかったくらいだからなー」と言うのである。
 私は「俺ももう二十三だよ、他人から見れば半人前かもしれないが、俺も一端自分で決めたことだから今更やめることはできないよ、世間で言うほど危険な仕事だったら帰ってくるよ」と言って決意を述べた、父母も兄もそれ以上は言わなかった、翌朝母は出発する私に好物のぼた餅をこしらえて心配そうに送り出してくれた。
 日本鋼管川崎市渡田にあり、大小の鉄管をつくるのを主な仕事としていた、南側の海岸線は広大な埋立地で、たくさんの工場が林立したくさんの煙突からは赤黒く空を覆う煙を出し騒音は大変激しく響き渡り休むことがない、静かな山村地域から来た私には耐え難いほどの轟音が腹に響く、北側は一面の湿地帯で、葦が覆い茂り耕作を放置された水田だろう、急速な人口増のための住宅地が急ごしらえに造成された地域にある関根鶴吉さんが紹介してくれた従弟の会社を訪ねた。
 太田組鈴木喜代治郎さんの住居兼会社は、正面が母屋になっていて、右側が若い衆(従業員)の寝泊りする部屋があり、左側は工事用具や材料を置く物置小屋があった。母屋正面には大きな一枚板に太い筆で太田組と大書され左側に鈴木喜代治郎と書いてある玄関口で案内を請い、出てきた若い衆に関根鶴吉さんの紹介状を出した、しばらく待つうちに五十五、六歳のがっしりとした男の人が出てきてニコニコしながら「やあ、よく来てくれたなあー、私が鈴木喜代治郎だよ、手紙にも書いてあるが、都会に出てきたのは初めだそうだが、ナーニお百姓の息子さんならうちの仕事くらいなんでもないさすぐに馴れるよサアサア上がって座敷で休んでいてくれよすぐに賄いのばあさんがお茶でも持ってくるからゆっくりしててくれ、夕方になれば若い衆が戻ってくるから紹介しよう」とのことだった。
 午後六時ごろになると工場内の現場から六〜七人のひとたちがドカドカと戻ってきた、皆真っ黒の日焼けして逞しい体格の人たちばかりであった。その中の六十がらみの親父さんが部屋頭の熊谷久太郎という人だった、翌日から私も現場へ出て働くことになり、なれない土方作業の根切り(つるはし、スコップ等での土起こし)、パイ助担ぎ(工事用の砂利、砂を丸い籠二個につめ天秤棒で担ぎ運ぶこと)は初め無理なので工事場の片付けや段取りの手伝いなどの仕事をしていたが、三ヵ月もするとたいがいの仕事も人並みにできるようになって日当も人並みのものになったがそれというのも部屋頭の親父さんが辛抱強くめんどうをみてくれたおかげだった。
 日本鋼管での現場の土木作業も、世間で噂するほど厳しく危険なものではなかった、会社の安全基準を守って注意深く行動すればよく毎日の仕事にも張り合いが出るようになり、こせこせしない野外労働、雨の日は屋内工事となり思いのほか収入もえられた、三澤籐太氏の土木作業の二倍の日当一円六十銭になった。
その間、家には一度も便りをしなかったので、昭和十年四月、兄の俊雄が突然訪ねてきた「お前が家を出てからただの一度も手紙もくれないので、お袋が心配して様子を見てきてくれというので、野良仕事も一段落したので来たんだ」とのことだった。私は連絡もせずにいたことをわびた後「大丈夫、初めはなれない仕事なので苦労はしたが、きつい仕事にも要領を覚えてきたので、呼吸も飲み込みケッコウ楽しく働いているから心配は要らないよ」と言って、盛り上がった肩、節くれだった腕をたたいて見せた。兄は、呆れたように苦笑した。「そうか、よく解った。俺もお袋に安心するように伝えておくから」と言った。「そうですよ、おっかさんに余計な心配をかけるもんじゃありませんよ」とお菓子とお茶を持ってきた賄のおばさんも加わった。兄は玄関の上がりかまちから腰を上げ賄いのおばさんに礼をいい私に「それじゃあもうおいとまするからご主人や皆さんにお前からよろしく伝えてくれ」と外に出たので私も兄と連れ立って表通りまで出て兄を送り際に、ズボンのポケットから財布を取り出し一円札二枚、五十銭銀貨一枚を「帰りに昼飯でも食ってくれ」とためらう兄の手に握らせた、しばらく私の顔をじっと見ていたが「身体に気をつけろよ」と言い残して帰っていった。
 そんなことがあってから四ヶ月後の八月下旬、至急電報が届いた。兄からのものだった、[チチキュウビョウカエレ]と言うものだった、私は取る物もとりあえず久しぶりの我が家へ帰った。仁太郎は持病の喘息の発作から高熱を出し、肺炎を併発、危篤状態に陥り二〜三日が峠であるとの医師の診断であった、そのうえ兄俊雄が九月中旬から三か月の予備役召集(現役を終えた予備役在郷軍人の軍事再教練)で、東京市赤羽の工兵第一大隊に入隊することになったのである。
 やがて、秋の農繁期になる、一家の働き手を軍隊にとられてしまえば大変なことになる。幸い父の容態は小康状態態になったが姉妹は働きに出ている、病み上がりの父と母では秋は越せない、仕方がないので三か月の間私が農作業をして我が家を支えることになった。川崎の太田組には事情を話し残りの賃金を清算し、荷物をまとめ引き上げて我が家に戻り次の日から農作業に従事した、十一月中旬、兄も無事に軍務を全うし除隊したので、兄とともに年末の取り入れ、作付けなどを滞りなく終えた。
 昭和十一年新春、父もスッカリ健康を取り戻し私も二十四歳になった、これ以上家に居る必要もない、将来の生活の道を築くのが何よりも先決だと思い、また適当な働き口を探すため知り合いに声をかけていた。その内の一人屋号が杉山の井組勇吉さんの紹介で井組さんの遠縁に当たる横浜の鶴見区佃野町十三番地にある池田組運送店という土木埋め立て用の砂利の運搬をしている会社に住み込みで働くことになった、肉体労働以外に特技もない私には仕事の選り好みなど言っていられない事情があった、とりわけわが家の様な山里の小作農では長男が家業を受け継ぐのでさえやっとのことであるし、私が外に出て生活の道を求めるのはあたりまえのことで自立こそ大切なことである。池田組運送店はわたしが想像していたような荒っぽい、きつい仕事ではなく、野外労働を経験したものにとっては健康体でさえあれば誰にでもできる作業であり池田組はおもに鶴見〜川崎〜羽田〜大森〜森が崎方面の臨海工業地帯の埋め立て作業である。鶴見町総持寺の本山通り裏手の通称浦島山と呼ばれていた高さ五十メートルほどの小高い山を切り崩しトラックに積んで埋立地に運搬するというきわめて簡単な作業で危険なことも無く安心して長つづきする仕事だった。作業員は三十人ほどの若い衆がいた、おもに東北の福島県山形県、あたりから出稼ぎに来ている人たちで農家の次、三男が多かった。それに、同じ村の鴨志田四平さんが元部屋の先輩として働いていた、社長の池田高助さんは三十三歳の壮年ながら二十三の歳からこの道を志し裸一貫、独力で事業を起こして粘り強く努力を重ねたたたき上げの人だった。内部屋、外部屋の棒頭(責任者)や若い衆の気受けも極めてよく信頼も厚く、仕事以外にも何やかやと細かい点まで相談相手になってくれる温かい人柄で、佃野町内のひとびとにも極めて信頼され、町会長まで務める好人物だった。
     暗い時代
 私が池田組運送店に住み込みで働くようになったのは昭和十二年二月の中ごろからでその年の七月七日は上海盧溝橋事件に端を発した支那事変の勃発の年だったがそれは日本陸軍の狂気の独走が始まったことによるもので、天皇を初め側近の重臣、心ある為政者、内閣、真の憂国者、たちの真意を無視した無謀な軍人たちによって「日本国は神国なり、神州は不滅なり」「大日本は大東亜の盟主なり」と世界の大国に向けて揚言大語(ようげんだいご)し、支那大陸に戦いの歩を進めたのである。[支那を制すのは世界を制す]との思い上がりである。果たせるかな、そのような行為に対してアメリカを始めヨーロッパの大国は一斉に無謀な侵略であるとして、ただちに中国全土から撤兵せよとの抗議文を各国の大使館、公使館に突きつけてきたのであった。それを無視する日本軍は昭和十三年に入ると、上海、徐州、南京と侵略を進めいつ終るとも知れない長期戦の様相を呈してきたのである。既に国内では予備役在郷軍人および第一乙種の兵役義務にある男たちが、次から次へと招集され大陸戦線へと送り込まれていたし国内には不安な様相が世の中を覆い始めていたのであるがわが家も例外ではなく兄が予備役在郷軍人であり、弟ももうすぐ兵隊検査である。
 不安が的中する、私の職場に兄が召集を受けたとの知らせが、電報によって届けられた。私は組長の池田高助氏にこの事を告げ、仲間や池田家の人々への挨拶もソコソコに家に戻った、六月九日であった、その夜近隣の人々、親類の人たちを招いての壮行会が行われた、壮行会と言うのは送別の祝宴で、農村などでは[立ち振舞い]といわれ、通常は他家に嫁ぐ花嫁、または次、三男が他家に婿入り時に行う送別の祝宴などをいった。
 わが国に明治初年に制定された国法は天皇陛下を中心とした立憲君主国制度の憲法が制定され、国体、国威を維持する要である徴兵制度が敷かれ、日清、日露の戦争には大勝利をなし、世界列強国に対して国威を宣揚できたのは天皇陛下の大御心(おおみごころ)による賜物と、世界に比なき勇武の陸海軍の将兵の儘忠報国(じんちゅうほうごく)の愛国心によるものであり、選ばれて一切の私情を捨てて祖国のため、天皇陛下の御為に軍人として戦場に赴くことは、男の本懐であり名誉であり一家一門の栄誉でもあるといわれていたのである。そういう背景の下に壮行会という重苦しい空気の中で行われる送別の宴であった。その後人々が帰った後「俺が出征した後、うちの収入はまた元のように何も無くなる、苦しい暮らしに後戻りだなー、やっと自給自足が整いあと半年か一年頑張れば暮らしも幾らか楽になるという矢先に召集となー」 と深刻な顔で言うので、私は池田組で働いて貯めた貯金通帳を見せ「大丈夫だよ、これだけあれば兄貴が応召解除になるまで心配ないよ、なーに俺も家に戻ったからにはそのつもりで頑張るから」と励ますと、兄は私の顔をジッと見て「そうか、これで俺も安心してあしたは出発できるよあとは頼むぞ」と私の手を固く握り締めた。
 昭和十三年六月十日兄は東京の所属部隊に出て行った、同じく十七日中支派遣軍岡村部隊気付、栗原部隊、柴田隊に配属され中支戦線に出征していった。
私はまた家に戻り農業を支えることになる。その後借財は計画どうりに返済が進んでいたがまだ完済までには一年半を残していた、私は貯えた二百四十円の金を銀行で降ろしてきて現金を父に手渡した。父は驚きそして大変喜んだ。
 支那事変から二年、中国戦線は拡大の一途をたどり、やがて奈良村からもきょうはあの家、明日はこの家という風に召集令状が届くようになっていた。最早戦争も局地戦では収まらず、本格的な戦争に突入してしまったことは国民みんなが覚悟せねばならない事態となっていたのである。戦線、銃後という言葉が盛んに言われだして、日常生活の食料や燃料に不自由するほどになる頃『欲がりません勝つまでは』などという標語が流布されますます重苦しい貧窮が迫るようになり『ガソリンの一滴は血の一滴』などと叫び銃後の協力もむりやりというようになって日本中が狂気の集団と化してゆくのもそう遠くはなかった。 昭和十四年三月下旬、軍事至急電報が届く兄俊雄からのもので『アスアサカエル』と言うものだった、吉報だ!みんながざわめいた、応召解除だ!復員だ!父、母、私は夜の明けるのも待ち遠しい思いで朝を待った。
 午前十一時ごろ、帰り着いた兄は以外に戦時武装のままの姿だった、左腰に長い指揮刀をつけ、右腰に大型の軍隊用の銃をつけ、左腕には紅白の横縞の腕章を巻き、左右の肩には軍曹の階級章をつけ、実に堂々たる姿で現れたのである。応召解除の復員ではなかった、所属工兵隊の一部復員帰還兵員、百五十人の輸送指揮官として広島の宇品港に上陸、六日後には再び軍用輸送船で中支戦線へ戻るのだと言うわけで、その間一泊二日をわが家で過ごすというわけだったので東京のメリヤス問屋で働いている三男敬敏(十九歳)も呼び寄せ、親戚のものや近隣の人々も我が家に集まりいろいろな話に花が咲いた。翌日、午後出発の直前、兄は突然の激しい悪寒にともない四十度の熱を出し倒れたが予定の日までにはなんとしても広島まで戻らねばならない、中国滞在中で罹ったマラリアの再発だった。すぐに長津田の医師の急診を受け解熱注射と解熱薬を処方してもらい出発していった、それから十日後兄からの軍事便で原隊復帰の知らせが届きホッとした。
     田奈部隊
 明治維新以来七十余年これと言う変化もなく土着の人びとにより、農業を中心に因習を守り山村特有の質素な暮らしを守り、平凡で平和な暮らしをしていたのであるが昭和十三〜十四年初めにかけて、この地がまだ横浜市編入される直前のことだったと思うが、東部軍経理部の中堅将校を通じて神奈川県都筑郡田奈村字奈良、鴨志田、東京市南多摩郡鶴川村三輪野共有林を含めて、総面積三十数万坪の山林、田畑を事前協議無しに各町内会を通じて、国の定めた適正価格の応じて即刻買い上げを関係地主に申し渡した、関係地主はもとよりその地にすむ人にとっても寝耳に水であったが逆らうこともできなかった。東部郡経理部の半強制的に買収した山林田畑は東京市板橋に所在する東京兵器補給廠の分廠であり、おもに弾薬調整加工廠であることが明らかにされ、そのため軍当局は新設作業廠の必要使用人は男女を問わず地元民を優先採用すると確約したのである、そして施設予定地に住む八戸の農家も移転を余儀なくされた。
 その年、昭和十四年四月一日付けで神奈川県都筑郡田奈村字奈良から神奈川県横浜市港北区奈良町と住所変更された。同じ年の六月頃から東京の大手土木建設会社松村組により軍事建設工事が着手されたのだが、当時の工事は機械がまだまだ後れていた時代で土木作業は人による人海戦術であり、そのため多くの労働者が募集され工事が進められていった。戦時下の工事ゆえ急を要するものであるので、労務者も多数を必要とされ、東北の宮城、福島、山形あたりの農家の青年や、在日朝鮮人が多く集められ、またたくまに飯場が急増、農家の空き家なども飯場用に貸し出された、このように各地方からたくさんの労働者が溢れるように集められた山間の小さな村はにわかに活気に溢れ、騒がしくもなった。 それまで戸締りなどしたことのないこの村は、見慣れぬ労働者の徘徊する村となり、警戒の目を注ぐようになり、戸締りなどもするようになった。しかし、軍当局、及び松村組の責任において次のような注意が告知されたのである。
一、本工事完成は地元民の皆様の全面的な協力が無ければ早期完成は不可能であること。
二、工事関係労務者は安全及び監督は充分に注意を怠らず夜間外出はすべて許可制とし、宿舎の人員点呼は毎日行うこと。
三、万一地元民に迷惑を及ぼすような言動、行為をなした者はただちに憲兵分隊にひきわたすこと。 
四、朝鮮人独身労務者はすべて恩田宿舎に収容し同宿舎責任者に監督を一任すること。
 その結果地元民も厳重な警戒感も緩和し友好的な態度で迎えるようになった。昭和十五年、奈良町の軍事施設工事も昼夜兼行で急ピッチで進められ、山村で現金収入の機会の少ないこの町の青年たちは農作業は老人に任せ、農繁期以外は工事場に出て働くようになった。私も父と相談して家から遠い作地を地主に返して耕作面積を縮小(田畑併せて千三百坪)し、私は松村組の製材作業場へ製材職人の手伝い人夫に雇われ日給二円三十銭で働きに出ることにした。弟の敬敏も東京のメリヤス問屋の定員をやめて横浜市神奈川区の浅野船渠(ドッグ)機械工として就職し家から通勤するようになり、家族も父母、私、弟、妹二人の六人となっていた。兄は戦地におり、姉のエイ、次女カツ、三女琴江の三人は嫁に行って、わが家もそれなりに平和な日々が過ごせるようになっていた。
 昭和十六年六月、中支戦線から兄の便りで、曹長に昇進したとの軍事郵便があり。十月には奈良町に新設された陸軍作業廠も操業を開始、名称は東京陸軍兵器補給廠田奈部隊といい火薬調整及び大小の砲弾装填、貯蔵、それらの戦地輸送準備などが業務であった。またこの年はわが家にもいろいろなことがあった、過去二十年にわたる借財返済の終ると同時に、父仁太郎の傷痍軍人特別恩給証書が抵当を外れて念願の父の元に返ってきたことである。その日の来るのを石井仁太郎家の全ての者が待ち望んでいたのである。わが家ではその日、まず神棚に榊を供え、灯明をともし恩給証書を供え、父母ともども拍手を打ち、うやうやしく伏し拝んだときは御神灯も涙にかすんで、待ちに待った喜びと安堵感に浸った。
 そんな喜びも覚めやらぬうち、兄俊雄からの軍事郵便が届いた、肺浸潤により陸軍野戦病院へ入院したと言うのであった。喜びは一転して重苦しいものとなった。そして、三男敬敏は前年浅野ドッグを退職、経験工として相模原市淵野辺の陸軍相模原造幣廠に転職していたのであるが、この年徴兵検査で甲種合格となり、翌十七年春には現役兵として満州の部隊に入隊が決まってしまったのである。弟もわが家の家計の大変さは知り抜いていたので、月給も最低限必要なものほかは父に渡していた、その弟も楽しい思い出もないままにすぐ戦地に赴く、重苦しさは二重になってまた我が家に張り付き始めるのだった。
 丙種合格の私は戦場の行かなくて済むので、地元の陸軍兵器補給廠田奈部隊、会計班付き炊事班に臨時工員として務め始めた。一昼夜制の二十四時間交代勤務だったので、さいわい家業の農作業もさして支障も無く、好都合であった。それから一ヶ月後、日本が突然アメリカに宣戦布告し同時に、日本の連合艦隊所属海軍航空隊特別攻撃隊が、ハワイの真珠湾を攻撃したのである。アメリカ太平洋艦隊は大変な損害を受けた。日本では『やったやったと』大騒ぎであったが、世界を相手にいわゆる第二次世界大戦に突入してしまった日であるそんな昭和十六年が過ぎた。
 昭和十七年一月五日、臨時雇いだったわたしもこの日、本雇用となり普通工員となり、二月一日付けで配膳係班長に任命されまずこれで一安心ということになった、毎日の作業に弾みがつき、張り合いも出、一日おきの勤務明けの日には父母ともどもに農作業に励むゆとりある日々を過ごせるようになっていた。安定した陸軍軍属工員に本雇用になったことで、父母を初め弟敬敏、隣家の大工職、鳥海酉蔵さんご夫婦までわがことのように喜んでくれた、私が二十八歳八ケ月のことである