ひらめき・庄三郎さんの遺言書

     ひらめき

 心の底からありがたかった、これで助かった。
 アー良かった、無理を承知で一か八かあたって砕けろだ、駄目ならまた何か考えればよい、そんな思いが届いたような気がした。私はあらためて井上博良さんに深々と頭を下げ、それまでの非礼を詫びたが、好人物ぞろいの家族の人達も我が事のように「サッちゃん良かったね」口をそろえて喜んでくれた。人情歌に『うらぶれて袖の涙のかかるとき、人の情けの奥ぞ知るなり』というのを思い出した。追い詰められて、もうどうにもならないという思いからの行動が好転し、実を結んだのだ、井上家からの帰り道は足取りも軽かった。
 貸していただく田んぼは六畝(百八十坪)ある、これだけあれば何とか飢えは凌げるだろう親父もお袋も安心するだろうという思いで希望が生まれた。
 その年(昭和二十一年)六月中頃、井上さんから借りた田んぼに田植えを済ませると、暫くの間息抜きをして、もとの日本陸軍火工廠田奈部隊から、アメリカ駐留軍に接収されて田奈火薬廠と呼び名も変わった米軍基地に、友人の手引きで人夫として雇われ日当六十円のその日払いの仕事に就いた。人夫として働く者は、ほとんど近郊の村人だったが、それ以外にも何十人かの田郷の者も出稼ぎに来ていた。休憩時間にはいろいろな話が出、面白おかしい話に花が咲くこともあり身の上話などもそのうち出るようになったので、そうなると十年来の知己のように打ち解けてくるものだ。
 その中の一人に兵庫県生まれで終戦後、北支戦線からの復員兵で独身青年で三十一歳の浜谷某という人がいた、彼は仕事が真面目で律儀な性格の人であったがいつもは無口で、なんとなく沈んだような寂しげな面影をしているので、私は時折彼の話し相手になっていたのだが、きっかけをつくってから四〜五日もすると、彼が自分のほうから進んで私に話しかけてくるようになった。そして休みの日曜日などに時折、私の住まいに遊びに来るようになったのであるが、その浜谷某が約一年後に私の亡兄の未亡人ヒロさんの夫になる人とはそのときには想像だにしなかった。
 さて、私の人夫仕事も五ヵ月ほど過ぎるとその年の秋も深まり植えた稲も黄色く実り稲刈りをし、脱穀、籾摺り、が終わり収穫した玄米が三俵(百七十キロ)程になった、まずまずの収穫高だ、当分は植えないですむ、さっそく生家にも分配しよう、きっと喜んでくれるだろう、私たち夫婦は久しぶりに晴れ晴れとした気分で話し合い古い麻袋に玄米をいれた。やっと終って一服しようとしたがタバコがなくなっていた、当時タバコは配給制で二十歳以上の男子のみ、一日あたり三本のみだった。
 わたしはすこしいらいらしていると「貴方はタバコが切れると機嫌が悪くなるのね、あさっては配給日だからそれまで我慢できないの、そばで見ている私のほうがやり切れなくなるわ」と言いつつ「仕方ないわ私は今から実家に帰ってくるわ、実家の兄さんは顔が広いから闇タバコが何とかなるかもしれない」と言うのできつい仕事も嫌な顔ひとつすることもなく手伝ってくれた妻がいたから何とか年を越せる見通しもついたのだから「お前さんは一晩実家へ帰って骨休みでもしてこいよ」と実家に行かせてやった。
 そんな日の夜、あたりがスッカリ暗くなっても電灯がつかない「チェまた停電か」その頃はまだ戦後のドサクサで混乱し、あらゆることが復旧していなかった。一日おきか二日おきには停電があるのは日常茶飯だったが文句も言えない、仕方なくランプをともして独り言を言いながら大豆粕三割、コーリャン三割、半づき米三割の雑炊に大根の葉ト薩摩芋の細かく切ったものを入れた配給食を冷たいまま薄暗い六畳間で食べて、味気無い夜を過ごした。 あとかたずけもしないで冷たい布団にもぐりこんだがなかなか寝付かれずいろいろ考えているうちに停電の事が頭から離れなくなった。
 この調子じゃまだまだ電気が安定して使えるようになるのはかなり先の話だろうなあ、皆大変困っているだろうななどと考えているうちにろうそくを作ったらどうだろうと閃いた。米軍基地から廃棄物としてゴミ捨て場に排出されているパラフィン蝋は相当な量だがあれで簡単にローソクはできないものだろうか工夫次第でできないこともあるまい、細い竹に溶かした蝋を流し込むのはどうか、などと思案した末、ハタと思いついたのは今の住まいの前の川の土手に生えている大名篠だった。大名篠は弓矢、釣竿などに使われる山竹だ。
 そうだあの竹がいいなどと考えをめぐらすうちに朝になってしまった、そのまま着替え田んぼの向うの川の淵から大名篠を切ってきて持ち帰り、型筒の製作に取り掛かり、あれやこれやと試作してみた。朝飯もとらずに作っては失敗、失敗しては作り、ほぼ思いどうりの型筒を二本作り上げたのは午後一時過ぎになっていた、やれやれ出来たと、昨夜の残りの雑炊を食べ一息ついていると妻が実家から戻ってきた。
 義兄に世話になり手に入れたかなりの量の闇タバコを風呂敷包みから出して一本だけ私の手に置くと「あまりたくさん吸ってはいけませんよ、あしたは配給日だからね」と言いながらも上機嫌だった。私は妻に停電の話をしながら、二本の型筒を見せて蝋燭を作る話をすると、初めは呆れていたが余りにも熱心に話すので、次の日からあれやこれやと手伝い、三日がかりでようやく不細工ではあったが長さ十七センチ、周囲三センチ、二時間四十分も灯る蝋燭が出来上がった。
 終戦後、爆撃で破壊された発電所や変電所の復旧は困難で、復旧までには相当の時間がかかる、極度の物資不足なので懐中電燈、電池、灯油、ローソクなどは売っていないのであった。米軍基地から放出されるパラフィンはゴミの山の中に相当ある、今の内に拾い集めておいてローソクにすればいい、必ず売れるだろうと思ったのだ、集めたパラフィンは六十キロ位あった。 仕事の合間を見て五十本百本と作ったが初めは誰も買ってくれなかったが、十日二十日と経つうちに噂を聞いた人たちが二人三人と訪ねてくるようになり、一本五円のローソクを五本十本と買いに来てくれるようになったのである。
 元手いらずで一日当たり百五十円、二百円と収入が出るようになると私たちはとても嬉しかった、気をよくした私は更に八十キロのパラフィンを拾い集め、これだけあれば原料は充分だとローソク作りに励んでいると、表障子の外で誰かが来ている気配がしたので障子を明けると、カーキ色の作業服、濃紺のズボンにゲートルを巻いた地下足袋履き、五分刈り頭で四十年配の男が立っている、私は警戒して男の顔を見つめると「イヤー突然お伺いして申し訳ありません、決して怪しい者ではありません、私はこの村の関根高一の従弟で鈴木三五郎といいます、まことにぶしつけで失礼ですが貴方がローソクを製造している石井さんですか」私は少し間をおいて「いやいや製造しているというほどの事はありませんが、作っていることは事実ですが、素人作りの品物ですから、不細工でとてもお店で売れるような物ではないですよ」と笑いながら答えると、男は「いやいや不細工であっても途中で消えさえしなければね」といいながら私の顔をチラッと見たのである。
 私はとっさに、ハハーこの男は闇屋だな、それなら俺のほうにも考えがある、と何気なく聞こえるように「その点なら保証できますよ、外見は素人くさいですが原料はそこにもある、ここにもあるというような物ではありません何しろ旧日本軍の弾薬調整に使った本物のパラフィンですから、何なら今から部屋の中でお茶でも飲みながら実験したらどうですか、昨日こられた方も同じ事を言われて百本ほど買っていかれました」「私はその方にはっきり言いましたよ、途中で消えるようなことがあったらローソクは引き取り、代金はお返ししますとねところで鈴木さんお住まいはどちらですか」と言うと、「町田の寺町に二十年ほど住んでおります」ということで話が合い座敷に上がりこんでもらって、お茶を飲みながら、ローソクを三本灯し実験をしたが、結果は上々、鈴木さんは百本のローソクを買い求めて夕方お帰りになった。
 そして次の日の夕方、再び訪れて「石井さん昨日はとんだ失礼をして済まなかった、あちらの問屋でも大層よろこんで珍しい品物が手に入った何本でも良いから引き受けるそうですから、他所には売らずに私のほうに回してくれ」と言うのであった。節分を繰り上げて飛び込んできた福の神である。ヨシッ、これで取引先は決まった、一本でも多く作って納めなければと次の日から大名篠の筒型を倍増し妻と二人で量産体制に入った。
 ローソクは筒型の篠竹以外は米軍基地から出る廃品の山から拾い集めたパラフィンを溶かしたもの、芯糸は厚めの木綿の布切れをほぐしたものにした、筒竹の内側に塗る油は自動車の廃油で、筒竹を二つに割り上下をしっかり抑える輪ゴムは自転車のチューブを細く輪切りにしたもの、全て廃品なので原料費はタダだ。
 まず内側に油を塗った二つ割の竹の片方に芯を入れ、もう片方をピッタリ合わせて上下を輪ゴムで押さえて芯糸は竹ひごのピンでぴいんと張り、古い薬缶の中に溶かした蝋を入れ、溶かした蝋を静かに筒の中に注ぐ。
 竹筒は二十本単位に束ねて一単位にして四角い容器の中に立てておく、そうしておけばこぼれた蝋はまた使える、このようにしてやれば一日三時間もやれば百本か百二十本くらいは製品が出来た。
 昭和二十二年正月三が日が過ぎると、早々にローソクの生産に取り掛かったのである。四日五日で作った製品は六日の早朝、妻と共に小田急線玉川学園から電車で次の新原町田で降り寺町の鈴木三十五郎三択まで持参して二百本を納め二千円を受け取り、その際三日で二百本を納める約束を交し帰り道についた。二月末までには千五百本を納め、三月末までにはさらに二千本を納めたので合計三千五百本を売り、三万五千円になった。四月には入るとそろそろ原料が残り少なくなったので、妻に「人の欲はキリがないというから、またパラフィンが出たら作ればいいさ、こんなぼろ儲けは当座の事に決まっているよ、俺ワまた軍の人夫にでも出るから、お前さんは家にいて気が向いたらローソクを作るとも、近所の手伝いをするとものんびりと過ごせばいいよ」「ともかく三万のお金が貯まったんだから一〜二年は気楽に暮せるのだからがつがつするこたーないさ、また原料でも入ったら作ればいいさ」と言うと「そうね、あんまり欲張ると罰が当たるわねー」と笑顔でいうのであった。結婚以来四年間、愚痴も言わず、私のような男についてきて呉れた妻をあらためていとおしく思い、ヨーシこれからも頑張ろうと思った。
 三月も終ろうとするある日、前日も家に来て茶飲み話をしていった母だったが、また来ているので『ハハーお袋、きのうも来ていたが何か遠慮して言えないことがあるな、米が無くなったかな』と思い「なーんだお袋、きのうはお喋りが過ぎて米のこと忘れたんだろう、きょうは忘れずに女房にもらっていきな」と言ったのだが、母はなんとも言わず黙って私に顔を見つめるだけなので、私たちは不審に思い「お袋、なんかうちに変わった事でもあったのかい」と尋ねると、それにも答えず母は右手に握っていた一通の封書を差し出し力なく「とうとう駄目だったヨ、ユキ(三男敬敏)の戦死の知らせが届いたんだよー」と私の手にその封書を手渡したのである。 
 私はそれを受け取り取り急ぎなかの書類に目を通すと丸特の割り印があり、故陸軍軍曹石井敬敏殿、行年二十四歳、昭和二十年八月九日比島レイテ島・ピリヤバ山に於いて壮烈なる戦死を遂げられたり、第一復員庁印とある、弟敬敏の戦死の公報である。
 母は必死に取り乱すまいと涙をこらえ、傍らの妻に身体を支えられながら「仕方がないユキの友達も五人のうち四人は戦死したんだからなー、おらがのユキだけ助かったんじゃ他所の親御さんに申し訳ないからなあー」と自分に言い聞かせるような言い方をした。
 二年前に長男を失い、敬敏の出征以来無事を祈らなかった日はなかったであろう母は憔悴した心身をやつれた顔に滲ませながら、スッカリ白髪が増えてしまった頭をうなだれて寂しそうに佇んでいるのだった。
私は気を取り直し「俺はすぐに家に行ってみるから、お前はお袋を少し休ませて、後からきてくれ」と言い残して生家へ駆けつけたのである。家には近所に住んでいる二女と三女、上のうちの大工、鳥海さん夫婦が来ていて、仏壇には敬敏の生前の写真と最後の手紙となった遺書と遺髪、爪が供えられ線香が灯されていた、私は皆に目で挨拶をしてから正座し、仏壇に線香を灯し弟の写真に向って手を合わせ口の中で念仏を唱えたが涙は出なかった。
 戦死の公報が届くというのが信じられなかった、戦時中、戦死の広報を受けた後に遺骨が送り届けられ葬儀を済ませた家に終戦後、半年、一年経ってから、戦死したはずの本人が帰ってきたなどという話を見たり聞いたりしたからでもある。私は八歳年下の弟が残されたただ一人の男の身内であり、何とか無事で帰ってきてくれることを日頃から念じていたからでもあるがまさかと思うのである。
陽気な性格で、取り立てて努力型という風でもなく、意地っ張りで一年生の時からガキ大将であった、同級生が苛められてでもいようものなら相手が一つ二つ上の者でも一人で立ち向かっていくような強い性格をしていた、学業も常に上位で高等科二年までの八年間、修了式、卒業式には常に優等賞の証書を受けるような子供だった。親思い、兄弟思いで優しいところがあるので弟というよりも将来の良い相談相手になるかもしれないと期待をかけていた、そんな弟を失うというのである信じられるはずがなかった。
 五年前、満州の陸軍部隊に入隊のためわが家を出発した時、たくさんの人に見送られ行進して長津田駅前通りで見送り人の最前列で義姉と並んで日の丸の小旗を振って、弟の壮途を見送っていた結婚前のつまの姿に気づいて結集地に向う列車内で弟と話した時のことを改めて思いおこしたのである「兄貴、優しそうな娘さんではないか、俺のうちは大家族だからあんまり心配をかけないようにするんだな」と私に語った弟の言葉は私に残した遺言だったのだ、再び祖国の地は踏むことがないだろうという諦めや、決意を秘めた男の悲しい遺言でもあったのだ。そう思うと何か迫るものが私の心の堰を切り落とした、どっと涙が溢れてくるのを止めることが出来なくなってそのまま任せるよりほかはなかった。 弟の戦死公報があってから一ヶ月後、石井の総本家の主人である延良老人から話があった「実は生家の親父さんから何か込み入った話があるから、私とお前さんで一緒に来てくれないかと言うんだがね」と言うので私は延良老人の口調が常と違うのでほぼ見当は付いたが、老人には言わず傍らにいた妻に「きょうは俺だけ行ってくるからな」と言うと妻のほうも察しがついたらしく「すいませんねいつもお世話をかけて」などと何気ない口調で老人に礼など言っているのだった。そのまま私は延良老人と連れ立って生家に行った、家に行き表座敷の障子を明けると、父仁太郎、兄嫁の叔父田後万五郎、兄嫁の長姉の夫村田義勝、長姉の夫の加藤正一、の皆さんが座っているのだった。一座の人たちは延良老人と私のほうに視線を向けたが何もいわなかった。私はやっぱりそうかという思いでいた、弟の戦死が決まった以上、私に生家に戻って欲しいのだな、生家に戻って一家の中心として家族を面倒見てもらいたいということなのだろうと思い、一座の人達に軽く挨拶をして座についたが私から口を開かずに先方の言葉を待ったが一座の中に妻の実家の関係の人がいなかったのをいぶかしく思った。加藤正一さんが口を切った「敬敏さんの戦死が決まった以上、家を継ぐのは幸夫さんしかいないので、このさい幸夫さん夫婦がこちらに戻ってはもらえないだろうかと、先日田後万五郎さんより話があったので、きょうは皆さんにお集まりを願い、意見を聞かせていただきたい」ということだった。
 十秒二十秒、沈黙が続いたが田後万五郎さんが「実はサッちゃん、先日仁太郎さんから話があり、あんたに戻ってもらいたいのだがという相談を受けたのだが」と言ってチラッと父の顔を見て一息ついて「大事な話なので思い切ってお話をするが、俊雄さんの結婚と入れ替えに君たち夫婦がこの家を明け渡す際に、当座の持ち金もないのは知っていたが持たしてやらなかったので、後でおツルさんから届けてやってくれと何度も言われたが、とうとう届けてやらなかったので、いまさら俺の口から戻ってくれとは言い出しにくいとの話をされたので、加藤さんを通して皆さんにお集まりを頂いたわけです」と言われた。村田さんも、延良老人も、仁太郎も皆何にもいわずにいた、言えずにいたのだろう。
 なんと言う父の変わりようだろう、二〜三年前の父ならば他人や子供の前ではそのような弱気な事は絶対吐かなかっただろう、弟の戦死がよほどこたえているのだろうと、戦死公報が余程心身にショックを与えたのだろうと思った。フッと気がついてみると、一座の視線は私に注がれていたので「お話はよく解りました、デスカここでは即答できません、女房もいることですし私の一存では決めかねます、それにきょうは女房の里からは誰も来ていないようですので、後日またお話は承る事にしてきょうの所はこれでお開きにしていただきたい」といった。「そうか、長津田へ話を通さなかったのはまずかったか、俺もうっかりしてたわい」加藤正一兄は自分の手落ちのように一座の人に頭を下げた。

     庄三郎さんの遺言書

 住まいに帰ると妻に事の次第を話したが、その時ばかりは貴方が内に戻るなら反対しませんとも私は嫌ですとも答えずに、立ち上がって何気ない風で夕食の準備に取り掛かった、妻がそのような態度を見せたのは初めてだった、平素は従順な女房もこんな大事な時に自分の里方に話しが行ってなかったことに失望したはずだった。
 それから少し過ぎたころ、長津田の妻の実家から私にとって義父である河原庄三郎が危篤であるとの知らせが届いた、妻も私も知らせを持ってきた使いの人二人にろくな挨拶も忘れるほど驚いた。義父は一週間ほど前に来てくれたばかりである、義母の訪れは度々あり、そのときに生家への手土産などを届けてくれたりすることもあり、末の娘の妻は待ち望んでいたけれど、ここに来てから五年になるが庄三郎は一度も来たことがなくこの前来たときが初めての訪問だったのである。その日は折悪しく不在だった、妻が帰ったときは庄三郎が帰ってから二時間が過ぎていた。
 大家さんからそのことを聞いた妻が家に入ってみると、狭い部屋の手づくりの食卓に小さな風呂敷包みが置いてあり、開けてみると配給タバコの金鵄(ゴールデンバット六十本・二十日分の量)、新しいフランネル布で作った女物の肌着らしき者一枚が入れてあった。
 私は喜び悦に入って「タバコの手土産とはありがたい、義父もタバコを吸うのだがその義父さんがタバコを届けてくれるなんて、なかなか出来る事じゃないよ」などと上機嫌でいると「そうねー男親は娘の亭主は可愛いんだと言うけれど本当なんだねー」「私は近い内に暇をみて何か甘いものでも作って実家に行く事にするわ」と妻も上機嫌だった。そんなことがあった直後のことで妻もあわてた様子で「私はすぐに実家に行きますから貴方は後から来てください」と早口で言いながら身支度をして小走りに市営バスの乗り場へ向った。
 私もなんとなく落着かない気持で、独りの食事を済ませると着替えをし長津田の妻の実家へ着いた。着いたのは三時ごろで、病人の部屋へ入ると近隣の人々と妻の姉たち三人が枕元に付き添っていた。庄三郎は意識はハッキリしていた。長津田の医師奥津先生は「一応危険は通り越しましたが、あと三日か長くて一週間でしょう」と言った。私は枕元に行き顔を覗くと義父はうつらうつらとしていたようだが、薄目を開けつぶやく「なーんだ奈良のサッちゃんも来てくれたのか、わしはまだ大丈夫だよー」と言うのだが、部屋には死臭が漂っていたので私は枕元をそっと立ち妻を別室に呼び「親父さんはあと二日は持つまい、お前はここに泊まって親父さんの看病をしてやってくれ」と言い於いて家人に暇を告げて帰路に着いたのが午後八時ごろである。
 次の日、昭和二十二年四月二十一日。終戦後初の地方選挙の日だった。婦人参政権はまだないときで二十一歳以上の男子のみが選挙権を持つ時代だった。私は投票を済ませるとその足で妻の実家に急いだが到着した時には既に忌中の張り紙が貼られ、近所の人びとらしい人たちがせわしなく出入りしていた。私は急いで部屋に入り周囲の人びとに目礼して亡骸の顔を覆っている白い布をそっとめくり死顔を見た。穏やかに笑みを浮かべているようにも見えた、明け方近くの臨終だったという、臨終一時間前までは果汁などかわるがわるに飲ませてもらい聞き取れないほどではあるが「うまいうまい」といいながら飲んでいたのだという大往生である。

 河原庄三郎 六十九歳 合掌。
 
 妻の実家は維新前から五代続いた野鍛冶職の家で、妻の父庄三郎で六代目であったが、庄三郎は鍛冶屋を継がなかった、というよりも継げなかったという。理由は少年時代より小心というか、臆病者と言われるような性格で気の荒い大勢の渡り職人の出入りする野鍛冶職が恐ろしくてとうとう一人前になれなかったのだという。代々の鍛冶職をつげず庄三郎で自然消滅になってしまったのだという、そこでやむなく五代目から残された家と宅地、六百坪の畑があったので農家になったのだということなのである。庄三郎は先代の残した僅かな面積の畑だけでは暮らしが立たぬと、妻と共に村役場の用務員を務めたり合間には農作業と少しの暇も惜しんで働いていたという。だが用務員い農作業では両立しないので仕方なく用務員をやめて新聞配達をするようになり十五年ほど続けたそうである。妻が三歳か四歳になるころには既に新聞配達をしていたというから、大正の末ぐらいのことであろう。当時の新聞取次店は中山に一軒だけだった。毎朝三時半ごろ起きて雨の日も風の日も一日も休まず六時ごろには配達を終わり、朝飯を食べると畑仕事に出かけたそうだ。それでも貧しくはあったようで、一男五女の子供たちは尋常小学校の義務教育が終ると、上から順々に他家へ子守り奉公に出されたそうである。庄三郎は年端も行かぬ我が子がわが家を後にするときには子供の手を引いて村境まで見送り、姿が見えなくなるまで見送り、その姿が見えなくなると目頭を抑えているような人だった。
 庄三郎の通夜が終わり近隣の人たちは皆帰った後、残った直系親族と妻の姉四人、長姉は未亡人だがほか夫三人だけである。義母テイが小さな風呂敷包みを相続人である長男の半蔵の前に置き「この包みは二年ほど前から庄三郎さんから預かってくれと言われていたものだが、わしが死んだらこの包みを半蔵に渡してくれ、それまでは誰にも見せずにばあさんが持っていて呉れというのだわたしがあずかっていたけれど、明日お棺に入れる前に渡して置きますよ」というので、半蔵は笑いながら「何だろう」といって「どうせ親父の事だ驚くような物は入っているはずはなかろう、別に改まる事もなかろう、みんなの前で明けてみよう」と気楽に風呂敷包みを開いた。中には新聞紙に包んだ真新しい晒しの肌着一枚、下帯一本、油紙にていねいに包んだ手製の封筒、その中にはなにかしらぶ厚い品物が入っているようであった。半蔵は「なんだ襦袢と褌か、親父さんは用心深い人だったからなー」と苦笑いしながら封筒を手に取ると「随分厳重に封がしてあるなー、何が入っているのだろう」小首を傾げているので、私は遠慮して次の間に移動した、その他の人も移動してきた。
 しばらくすると隣の部屋から半蔵のかみ殺すような嗚咽が聞こえ、声は次第に大きくなり号泣になった。皆驚いて隔てている障子を開けて中を見た、そこには遺骸に取りすがって泣いている半蔵の姿があった。亡父の枕元には、和紙を幾枚か張り合わせた巻紙に筆でたどたどしい大きなカタカナで遺言書らしきものと、何十枚かの一円紙幣の束が置いてある。半蔵さんは涙でぬれた顔を上げて「俺にはここではもう読めない、すまないが皆で読んでくれるか」「俺は知らなかったんだ、今日まで知らなかったんだ」とあとは声にならず大粒の涙をぬぐいもせず一座の前に頭を垂れていた。私は皆が代わる代わる読んだ後最後に読んだ。一座の女たちは皆声を上げて泣き伏していた。その遺書は筆で書かれてはいるがたどたどしいカタカナで、ところどころに易しい漢字が入れてあり判読するのが難しいほどの金釘流だった。
半蔵ヘ、私ハワカイジブンカラ、オクビョウデブキヨウダッタ。ゴセンゾサマカラ、五代モツヅイタカジヤヲ、ツゲナカッタ、ソレデ、ベンキョウモヨクデキテコウトウヘアガリタカッタ半蔵ヲ十四ノトキカラ市ヶ尾ノ、親方ノ家へ年キボウコウニ出シタ。カワイソウダッタガ、今トナレバヨカッタト思ッテイル、私ノカワリニ六代目ノカジヤヲ、ツイデクレテ、リッパナショクニンナッテクレテ、アリガトウ。アノト市ヶ尾ノ親方カラ受ケトッタ三十五円デ、アカッパヤノ、ハタケガタニンノ手ニワタラナクテ、ホントウニヨカッタ。ゴセンゾサマノ、ノコシタハタケダカラ半蔵へワタス。コノ三十五円ハ、私ガ半蔵カラモラッタコズカイセンヲ、ツカワナイデタメテオイタ、カネダカラ半蔵ヘカエス、コレデ私モダレニモ、シャッキンナシダ、バアサン私ガ死ンダラ、ジバント、シタオビヲ、キセテクダサイ、マササン、バアサンヲタノムヨ、オワリ。
 という庄三郎の人となりがとても滲み出た遺言書だった。