見合い・所帯・兄の結婚・貧しい所帯・戦時下・戦場からの手紙

     見合い 
 同じ年の二月下旬、思いがけない人から結婚話が私に持ち上がったが、兄がまだ独身で野戦病院に入院中のことでもあり、「弟の私が兄より先にそのような話は受けられない」と断ったのだが、父母の方が乗り気になりその話を受け入れた。醜男(ぶおとこ)を自認していた私ではあったが、それならと見合いをした、相手の女性(二十五歳)も承諾したので結納も済んで吉日を選んで挙式の日取りも決まった、数日後、突然相手方から理由も明かさず一方的に結婚解消してくれとの文書が入った現金為替で結納金が送り返されてきた。封書の中には、理由は後日仲人を通じてお知らせすると言うのである、それから二日後仲人の海老沢磯吉なるひとから話された一方的な破談の理由とは次のようなものであった。女性にはほかに将来を約束した男性がいるのだが、その人は現在中支戦線で戦っている人である、両親に打ち明ける機会も失いまして頑固一点張りの父親にはなおさら打ち明けられなかった。
 思い余った末に母親に打ち明けたというのである、真偽の程はさておき、話の筋は通っている、無理もないことではあるがそれならばなぜ結納の前日にでも婚約を断ってくれなかったのかと抗議をしてみても始まらなかった。仲人の海老沢磯吉さんも面目まるつぶれとなり、私の前に深々と胡麻塩頭を下げ「いい年をして君や君の両親に頼まれもしないのに余計な世話を焼いて挙句の果てにこのざまだ、何を隠そう先方は私の長女があの家の長男に嫁いでおり親類の間柄だ、こうなったからには場合によれば、娘の家とも親戚の縁を切り、結納金も倍額にして返すつもりだから」と言うのである。私は「今となってはなんといっても仕方ありませんが、例え世間知らずとはいえ、二十五歳を過ぎた人なら、これから先長い一生の生活の相手を決める大事な時、自分で決断できず相手方に屈辱を与えるような人とは今となれば結婚できなかったほうが良かったと思います、結納金はお渡しした分だけ返してくれれば結構です」「私は見てのとおりの醜男ですがいつの日か分相応の女性と結婚する時もあるでしょが、このたびのご親切は私にとって貴重な経験として自分の胸にとっておきますから、当分は近所の噂にもなりましょうが、その内にほとぼりも冷めるでしょう」と言い気にしないよう伝えた。かたわらの父母や石井側仲人石井泰助さん海老沢磯吉さんも黙って聞いていたが、海老沢さんは「私もこの歳をして指をくわえて引っ込んで入られない、意地でも、気立てのいいもっと了見のしっかりした花嫁を探してきますからね、そうしないと君に頭が上がらないからね」と言ってくれた。
 そんなことがあってからしばらくしたある日、職場の先輩で副組長格の佐藤末広さんがそっと私をもの陰に呼んで「実は石井君、突然君にこんな話しをするのは非常識かも知れないが、思い切ってもう一度お見合いをしてみる気はないかね」「と言うのは実は俺の女房の妹に今年二十五歳になる末娘がいるのだがね、今までに一つ二つの縁談があったらいがなかなかまとまらず、今年で二十五になるのだが両親も義兄夫婦も頃あいの相手がいたら俺たち夫婦に仲人になってこれとのことなんだ」「末娘でなんの行儀も仕込んでないが、子守り奉公や女中奉公の経験もあるのでそれなりの苦労はしているようなんだ体格は小さいけれどね、顔立ちは人並みだと思うんだよ」「君は炊事工員の中でも一番話の筋は通っているし、真面目だし本雇用で収入も安定しているその上、失礼な言い方かもしれないが召集令状の来る心配もないしね。」「俺はね満州事変のとき予備役召集兵だが、俺の応召中は留守中女房は、長男を抱えて苦しい生活を強いられ、影膳をそなえて毎日俺の無事復員を祈っていたそうだ、どうだろう思い切って今一度だけ見合いしてみる気はないか」と言うのである。
 私は、心の中でヨシッ恥のかきついでだ、駄目でもともともう一度やってみるかと決心して「解りましたお会いしましょう、ですがひとつだけ条件があります、私の父母や職場のみんなに内緒でならお会いしましょう、そちらの都合でいつでも伺いいたしますが」と言った。それから二日ほどして佐藤さんから見合いの日を伝えられた。私も承知しましたと佐藤さんに告げた。
 見合いは長津田の駅前の佐藤さんの住まいでだった。内緒のことなので適当な理由をつけて仕事が終った後の夕方のお見合いとなった、仕事帰りの作業着のまま居間に通された、しばらくして義姉に付き添われて畳に手をつき頭を下げて白湯を出してきてくれたので挨拶をすると、相手の女性も顔を上げて私を見た。丸顔の可愛い顔つきをしていた、数えで二十五歳といったが一〜二歳は若く見えた、しばらくして彼女は引き下がった後、佐藤氏と少し雑談をして家に帰った。昭和十七年三月三日だった。
 やがて相手方のほうも話を進めてくれという意思が私に伝えられ、そのことがあった後、私ははじめて父母に今までのことを伝えたのである。そして、こちらからも正式に結納、婚約をすすめてくれるように頼んだ、父母も突然のことだったので驚いてはいたがおめでたい話なので大いに喜んでくれた、昭和十七年三月九日だった。
 その日の夕方からは弟の敬敏が海外部隊(満州)へ入隊のため、壮行会が行われ、祝宴が済み人々が帰った後、弟に今日までの縁談のいきさつを話した、前の破談のことも知っていた敬敏は「よかったなあ、兄貴、よかったよかった」と心から喜んでくれた。翌三月十日の朝、弟敬敏の出発の日、祝入営石井敬敏君と大書した幟旗を先頭に奈良町内の老若男女および小中学生等多くの人々に送られ村社「住吉神社」に武運長久を祈念し、奈良町〜恩田町の沿道の家々の人たちの万歳万歳の声援に応えながら約四㌔の道路を勇ましい進軍ラッパの音を響かせながら行進し、国電長津田の駅まで行進は続くのである。駅前の佐藤末広さんの家に前に差し掛かったとき晴れ着姿で最前列に出て義姉とならんで日の丸の小旗をふっている将来の私の嫁になる『トシ』に気づいた弟は『トシ』をジッと目の裏に焼き付けるように見ていた。
 海外部隊の入隊者の集合地は小田原城内広場と決められていたがそこまでは私と義兄(長女エイの夫)加藤正一、義弟(三女琴江の夫)井組繁蔵の三人でおくりにきていたが、弟敬敏は途中の列車のなかでこういった「ところで兄貴、俺の見た第一印象では優しそうないい娘さんではないか、何しろ我が家のような大家族に来るのだから、あまり余計な心配や苦労はかけないようにするんだな」と、九歳年下の弟ではあったが日頃からの親思い兄弟思いの弟の言葉がうれしかった「大丈夫だ心配するな」と答えておいた。そのときのやり取りが今生の別れの言葉だったとは誰が知ろうか。
 やがて、縁談は順調に進み、こちらは本家の石井泰助さんを仲人に立て、昭和十七年三月二十八日の良き日を選んで、石井幸夫(数え年三十歳)河原トシ(数え年二十五歳・長津田町下長津田・河原庄三郎、テイの五女)の両名はめでたく結婚した。石井幸夫、トシ夫婦の誕生である。




     所 帯
 結婚当初は、見るもの聞くものみな新鮮味があり、楽しさに満ちて毎日が張り合いのある生活で、お互いが心身ともに打ち解けあい信じあい、語り合うのが楽しく、理解を深める一方、夫婦愛の芽生えも感じ始めたころは、早くも三ヶ月を過ぎていた。
 少年期に症状があったが、その後治まっていた鼠径ヘルニアがまた症状が出てきた。勤務先の田奈部隊の医務班の軍医(中尉)の診断を受けると、「このままにしておくのは非常に危険である、ただちに手術を行うように」という命令なので部隊の指定病院である町田市民病院に入院し手術を受けた。鼠径ヘルニアのような比較的簡単な外科手術も三十歳ともなると手術時間も以外に長引き二時間五十分もかかったそうである、全身麻酔からさめたのは夜の八時三十分ごろだった、フッと気がつくと寝台の枕元の上から心配そうな妻の顔と並んで妻の母親(義母)の顔がぼんやりと見えた、妻は何も言わず私の右手首を固く握っていてくれた、三時間もそうしていてくれていたらしい、義母もほっとした様子で私を見ていたが「よかった、よかった」と無事に終ったことを喜んでくれ、安心した顔で夜半帰宅して行った。妻はその夜はまんじりともせず枕元に付き添ってくれて朝を迎えた、二日目の昼も夜も寝ないで看病をしてくれているので、健康を案じた私の母は、三日目を迎えた朝の八時三十分ごろ加藤の家に嫁いだ長女のエイを頼み、妻と交代してもらった。 
 術後の回復も早く、周りの人々は驚くほどだったが二週間で退院、三週間後には職場に復帰し通常勤務に戻ることができた、そのときの妻の献身的な看護が私には嬉しかったし感謝し愛情もより深まった。スッカリ健康を取り戻したので、父仁太郎も一安心してそれから家事、家計、親類、近隣の付き合いに至るまで私たち夫婦に任せて、父たち夫婦は我が家から七〜八十メートル離れたところに新設された兵舎(相模原市淵野辺)陸軍兵器学校火工科伝習隊田奈部隊実科生の宿泊兵舎の管理人として、母ともどもに住み込みで勤務するようになった。父は日露戦争の白襷隊の生き残りであるため、兵器学校の主任経理官の染谷属官よりの指名で、強いて望まれて兵器学校の守衛長と同等の待遇を受けて管理人として勤めるようになった。そんなわけで、わが家では田畑の縮小をするため借地の返還などして面積を調整した、兄は肺結核のため香川県善通寺町の陸軍病院入院中であり、病が全快し応召解除になって帰ってきたとしても、当分無理な農作業は控えなければならないだろうということも理由のひとつにあった。私には兄が不在の間は家業の維持をする責任があるので、一日おきの勤務明けの日には農作業をする、農作業はまったく経験のない妻も家事の合間に慣れないながら畑仕事や、田の仕事の手伝いをと、私と一緒に汗を流してくれ、また春・秋の農繁期には妹思いの里方の長津田の家から妻に兄、義姉が手弁当で農作業の手伝いに来てくれたりした。
 昭和十七年十二月下旬、兄俊雄の病気も治癒、原隊復帰、無事にわが家に復員してきた時は、田の稲の取り入れ、畑の麦の播きつけ、脱穀、籾摺り、俵詰め、その他近所の人たちや親戚の人などの手助けもありとどこうりなく終わり、手助けしてくれた皆々様と、兄の無事な帰郷を心から祝福しささやかながら祝いの宴を開くことができたのである、兄は、長期の留守の間いろいろなお世話になった感謝の言葉を皆さんに述べあらためて私たちの結婚を祝福してくれたのだった。そして兄は復員後の疲れを癒すため当分のあいだ休養を取る必要上、父母と共に兵器学校伝習兵宿舎の管理人室六畳間に寝泊りすることになる、わが家の方には五女英子(ひでこ)と私たちの三人で寝起きするという生活が始まった。四女寿美代は東京市府中町の陸軍燃料廠に筆生(ひっせい・事務係)として勤務していた。三女琴江の夫、井組繁蔵が同じ燃料廠に勤めていたので、琴江の嫁ぐ家に寄宿していた。
     兄の結婚
 昭和十八年三月上旬、兄俊雄は地元の田奈部隊庶務班に事務雇員として入職し勤務するようになる、雇員と呼ばれる職員は所属する作業廠内では判任官としての待遇を与えられる人を指している、兄は応召中中支の部隊にいたとき曹長に昇進、成績も優秀であったとのことで一階級上の準慰職事務である人事、功績係事務を歴任したので、判任事務適任証書、善行証書、努力証、その他の証書を授与され持っていたため、労務係事務雇員として採用された、職務はおもに人事関係担当だった、すなわち守衛、消防、その他男女工員、事務などの志望者の採用試験担当及び現場工員の勤務成績調査などである。貧農の長男として誕生し、貧苦の中で年少より家計を助けながら小学校にも満足に通えないため小学校の卒業証書ももらえなかった人が独力で、たゆまぬ努力と精進を重ね命がけでかち得た地位であった。奈良村の人びとを初め、周辺の地区の人々は破格の待遇で迎えられて職を得た三十二歳の俊雄に羨望と尊敬の態度で接したといわれる、そんな兄の身辺には、にわかに嫁取りの話が盛んになっが、俊雄は「むこう二年のあいだは結婚できません」と言い、断り続けていた。兄は「俺は二年くらいたって、完全に胸の病気が出なくなるまでは結婚はとめられているだ、だから当分は兵器学校の親父さんがいるところで住まわせてもらうから、それまでお前たち夫婦で家のことは何とか支えていてくれ、頼むよ」と私に言った。田奈火薬廠には雇員以上の上級職員は十人ほどいたのであるが、いずれも年配の妻帯者であり独身は兄俊雄一人だったので、廠内の上司や同僚からぜひとも結婚するように勧められていたが、遂に断りきれないほどの状態になってきた、とくに両親それも母ツルの熱心な要望のこともあり受け入れざるを得なくなったため見合いをすることを受け入れたのである。
 相手の人は同じ奈良町の北が谷戸講中の代々土着の自作農の家で屋号を油戸といい、父の仁太郎とは若い時からの友達付きあいのある井上幸造さんの次女ヒロさんであり、その時、兄俊雄の七歳下であった。縁談はとんとん拍子に進み、進行役の先方の仲人である田後万五郎氏はヒロさんの叔父に当たる人で、同じ奈良町宮の谷戸講中で、代々続いた裕福な自作農家の主人であった。兄の俊雄とヒロさんは平素からの顔見知りであるので、かたちばかりの見合いをしたがすぐに済み、こちらからも姉の夫、加藤正一を仲人に立てて、その年昭和十八年五月上旬に婚約・結納を取り交わし一ヶ月後の吉日を選んで挙式をしたのである。
 私たち夫婦は相続人の俊雄の挙式が決まったので、兄夫婦と入れ替わりに生家を出て生活することになり、住まいを探し始めたが、急なことでもありなかなか空き家が見つからなかった。そんな折、母ツルが日頃から親しくしている金子宇平さん宅のおばさんでユウさんという人が、うちの離れの六畳間が空いているが、金子の相続人である亀治さんが所帯を持つまでの五ヶ月間でよければお貸ししましょうと言ってくれたのでそこを借りて当座の住まいとしたのである。その離れには屋内に便所もあり、小さいながら炊事場もあるのが、風呂は母屋へのもらい風呂であったが、これでまずまずの落ち着き場所が決まり一安心となった。そして家賃を前納することとなったが、私たちの手元には三円ほどの金しか持ち合わせがない、昔のことなので正確な額については記憶が定かでないがたしか三十円位だったと思う、結婚以来私たち夫婦は結婚以来、一年二ヵ月のあいだ給料は封を切らずに父に渡していた。
 家族五人の生活費は妻がそのつど父から貰うということをしていたので、私たちの手元には小遣い銭すら満足に持ち合わせていなかった。それというのも私たち夫婦の婚約時のとき、ある約束が両仲人のあいだで取り交わされていたのである。長男俊雄が復員し家庭に治まる時は、小さいながら家を建て私たち夫婦に与えるか、あるいは父の恩給一年分を私名義の貯金としてくれるか、との条件を口約束ではあるがしていたので、そのことは妻の実兄、両親も承知していたのである。そのため月給をすべて父に渡すようにしていたのである。その金額は月に百二十円くらいである、わが家の五人分の生活費には充分だったし、父の恩給、年金もあったのだから一年二ヵ月とはいえ相当の貯えもあったはずだったが、家賃の前納はおろか三円の手持ち金しかないことを承知でいながら、父は何の心配もしてくれず、何もかも知っていたのに手を差し伸べてくれなかった。
 引越しの当日、母はなすすべがなくオロオロ心配するばかりで困り果てていた、そのような母がたまらなく哀れで不憫(ふびん)に思った。そんな母に「心配するなよ、月末には給料が入るから後十日の辛抱だ、家賃はそれまで待ってもらう、今度の給料からは自分たちだけのものになから何とかなるさ」と言うと、母はいかにも申しわけなさそうに黙って私の顔を見ていた。
 一言も不平じみたことを言わずに妻は私の後をついて引越しの手伝いをしていた、私は二十歳を過ぎて二度、今回で一度、コツコツ貯えたお金を差し出し、兄弟全員が家計のために働いてきてやっと借金も返して、今では大分ゆとりもできただろう父の今回の出し惜しみの態度には腹立たしさと情けなさをつくづく感じたが、これからは誰にも気兼ねせず妻と二人だけで生活を切り開くことができる開放感を噛みしめながら誓いを新たにしたのである。
     貧しい所帯
 しかし世の中はますます戦争による重圧と貧しさと軍部による締め付けの厳しい時代になり、庶民のあいだには敗戦の気配と厭戦的な重苦しくてやけっぱちな空気が漂い始めてくるのを私たちは感じ始めていた。
 そんな中、私たち夫婦は粗末ではあったが着るものはあり、食べ物も私は一日おきに三食付の職場でもあり心配はなかったが、住まいの方は貸家を出る日が近づいてきた。その頃の奈良町は田奈火工廠勤務の人たちが東京などからたくさん働きに来たので、空き家はおろか農家の納屋に至るまで全て貸しているような状態だった。私たちもあせりながら探した、そんな折、私方の仲人の石井総本家の泰助さんが心配し、父仁太郎と相談し、先々私の住まいを建てるまでの間ひとまず総本家の蚕小屋を繕い二人を住まわせようということになった。しかし、戦時下非常事態の最中であり物置小屋に等しい建物を住めるようにするのには困難を極めた。資材の入手が困難で、建具はおろか一握りの釘さえも買えないほどものが欠乏していた、そこで私は思いをめぐらした挙句、フッと父の勤める兵器学校の風呂の燃料の廃材の中にある使用不能になった古財、弾薬箱を貰いうけ、勤務のない日に父に手伝ってもらい、弾薬箱は床板用に古材木はネダ用に、釘は金づちで曲がりを伸ばしてためて、十日ほど費やして相当量にしてリヤカーで借りる予定の石井家本家に運んだ。それから一週間ほどして住まいができたとの知らせで、妻と連れ立って見に行ったが、あまりにオソマツな仮の宿に恐れ入ったがそこ以外にあるわけでもないので覚悟を決めた。
 その家は平屋の草葺屋根で建坪は六坪の一戸建てであり、骨組みはがっしりとしている、南向きで日当たりもよく道路からは二十メートルほど離れており、小高い場所にあった、間口は二坪の土間、雨戸もなく土間と床の境に古障子が二枚だけの仕切りである、仕切り境の障子を開け部屋をのぞいて驚いたのは床板は地面から五〜六寸(十五〜十八センチ)の高さで、床板の上には稲藁をぶ厚く敷き詰めその上にガマゴザ(蟇の穂で編んだ敷物)を敷き詰め、居間の三方の荒壁は隙間風を防ぐため古新聞が張り詰めてあり、明り取りの窓はなく、おまけに天井は六尺五〜六寸(二メートル程度)で前面にハトロン紙が貼ってありさながら大きな箱を横倒しにしたような格好だった。炊事場はなく便所は二十五メートル位離れた屋外のもので、総本家の人と共同であると言うようなものだったが総本家の相続人である石井泰助さんの好意に寄りようやく住まいが定まったのであるから、不平不満は禁物であると妻と話し合い、三度の食事の煮炊きはとりあえず間口のひさしの土間が二坪ほどあるので大家さんから大型のコンロを借りて裏山から枯れ木を集めて燃料とした、二人だけの生活なので慣れてくるとそれほどの不自由は感じなくなった。しかし南風が強く吹く日や雨の日には大矢さんの台所を借りてでなければできなかった。夫婦二人の持ち物と言えば、妻は里方から持ってきた箪笥一竿、小さな鏡台、私は古びた布張りトランクひとつ、布団一組、茶碗四個、小皿三枚、湯飲み茶碗ふたつ、夫婦箸二膳、多少の衣類が全財産だった。しかし金子さんの間借りの期間にためた現金が二百円以上あったので生活に不自由することはなく、他人が見るほど悲惨なものではなかった。
 『不自由を常と思えば不足なし』と言うところか、懸命なる妻の支えがあったからこその忍耐でもあった、私たちの場合は二身一体ともいうべきで、互いに心の中で励ましあって乗り切ろうとしていたのである。とはいえ夫として、男としてこのままではいけないので、少しでも環境を改善しようと行動に移し始めた、まずは台所であり、次は便所そして風呂である、そこで私は家主の泰助さんに許可を得て北側の裏手の土手を切り崩し平地にして空き地を作り、勤務先の田奈部隊の建設工事場から燃料として民有地に放出される廃材置き場から、非番日を利用してリヤカーを借りて、どうやら使えそうなものを集めておいて、職場の同僚である村田富蔵さん藤森一治さんの協力を得て縦五尺横二間、屋根は古いトタンを葺き、周囲は古い板で囲い粗末ながらお勝手を作り、村田富蔵さんの裏山から山砂や粘土をもらって水で錬りその中に藁を細かくしたものを混ぜ、大きな二口かまどをこしらえた。日光で三日乾かして村田さんと二人でリヤカーに積んで、我が住まいに運んで据え付けた、厚みのある板で流し場も作り、おそまつながら台所の完成を見たのであるがまだまだ課題である便所と風呂場のことがある、そこで裏に作った空き地に便所を建て、南側の入り口土間の右側に一坪ほど板囲いをして田奈部隊の自動車修理工場から貰い受けたふるいドラム缶を特別に払い下げてもらい、古いレンガやコンクリートの破片を集めて大きなカマドを組み立て、外側を粘土と山砂、石灰を水に混ぜて錬ったのを上塗りとして施してその上にドラム缶を載せドラム缶の中に丸い敷板を作り速成のドラム缶風呂が出来上がった。
 また妻が鳥海大工(和明さん・修行中)さんに頼んで北側の壁を打ち抜き間口六尺奥行き三尺の押入れを造ってもらい、ようやく家主さんに迷惑がかからないようになった。やっと夫婦二人が生家を離れて以来、気兼ねもせずに過ごせるような住まいを得ることができたのである。 
     戦時下
 既に中国大陸では、中華民国国民党党首の蒋介石総統は首都を中印国境ちかくの奥地、重慶まで後退させて国土防衛のための最後の非常手段として、思想的にも政策的にも違う中国共産党と手を結び、救国と言う大儀のもとに容共抗日徹底抗戦を支援国である世界の強国に宣言した。
 昭和十九年に入ると、連合国軍(英・米・オーストラリア軍ほか)の反撃作戦はますます激しくなり、日本の北方最前線の要衝であるアッツ島守備隊、山崎部隊の玉砕の悲報を皮切りに、中国重慶を基地とするアメリカ空軍が世界に誇る空飛ぶ要塞といわれたボーイングB29爆撃機編隊が東京三鷹中島飛行機製作所(ゼロ戦などの製造で知られる航空機トップメーカー)を大爆撃して大打撃を与えた。また南方海域戦線の要衝ソロモン群島諸島のうちガダルカナル島、ブーゲビル島、などの日本軍守備隊も敗色濃く、制海・制空権を失い、補給線は寸断され各島々の守備隊は孤立無援の状態になった。『どうも駄目らしい』と言うたぐいの流言も流布し初め、一時は占領したフィリピン諸島などもアメリカの陸海空軍の猛攻撃にあい苦戦しているなどの情報が流れ、大本営発表とのズレを感じる国民は、次第に不安の色を濃くしていったのである。 
 そんな状勢の時、久しく途絶えていた弟敬敏から軍事郵便が届いた。はがき便の文面には満州国吉林省公主領陸軍教導学校を無事卒業、陸軍伍長に任官、某方面にむかうことになったという簡単な文面のものであり、末尾にはしばらく便りはだせないが元気で軍務に服しているので安心してくださいというものだった。入隊以来初年兵当時から十日〜十四日おきにうちや親戚或いは近隣にとどいていた弟敬敏からの便りはその後ぷっつりと途絶えたのである。いっぽうわが家では兄嫁ヒロさんが妊娠五ヶ月を迎え、兄の俊雄はじめ六十過ぎになった父仁太郎、ははつるなどは程なく生まれてくる初孫の顔を見る日を待ちわびていた矢先、俊雄が急に胸部疾患(結核が再発)町田の病院に入院した、昭和十九年三月であった。その年以降敗戦色が濃厚になり日本国中が混乱と貧困の時代になるのである。兄の入院は意外に短く、二ヶ月ほどで病状も小康を得てひとまず退院をして自宅療養ということになったが、当時の医療水準は非常に貧困なもので、戦時下でもありとても情けないものだった。ヨーロッパ、アメリカなどとは比較にならぬほど立ち遅れ医薬品はおろか治療さえ充分に行われていない現状だった。皆戦費の方に回されて国民は『欲しがりません、勝つまでは』のスローガンの下、貧困な生活を押し付けられていたのである、そんな状況の自宅療養だったこともあり結核の特効薬などは庶民には遠い存在でとても高価なものだったし、第一品不足で買えるほどの人は一握りの人だけだった、薬どころか食料すら満足ではなく、米麦の配給とて少なく、ましてや肉、魚などの配給はたまにしかないという有様だったので体力の回復もママならぬと言う事態に置かれていた。 米農家ですら定められた量の自家保有米のほかはすべて強制的に供出せねばならなかった。 
 わが家は、私たちの別居と同時に借りていた農地はほとんど返したので食糧は配給を受けていたが、幸いにも私は炊事班に勤めていたので一日おきではあるが三食付と言う特恵があり妻は住まいの近所の農家の手伝いや、衣類の繕いや縫い直しなどをしていたので、謝礼として少しではあるが米や野菜を頂くので、配給米があまるほどだったため少しずつではあるが貯めては実家の母に届けていたが、それでも大人数の実家(両親、病気の兄、妊娠中の兄嫁、四女寿美代、五女英子)では不自由だったと思われた、もうその頃は四女寿美代は地元の田奈部隊に転職して実家から通勤していた。
 兄嫁は身重のため病床の俊雄を含めて四人の家族の家事その他にたずさわることは重荷なので、四女寿美代と五女英子は父仁太郎の勤務先である兵器学校の管理人室に父母とともに寝泊りして、食事なども共にし、二人は田奈部隊へ勤めたため兄夫婦は生家で二人暮しになった。    
     戦場からの手紙 
 そんな時、久しく途絶えていた弟の敬敏からの封書入り特別軍事郵便が生家に配達されてきた、封書の中の便箋は軍用罫紙であり、冒頭には最後の通信とあった。
『入営以来三年間、平和郷の満州で軍事訓練を受け続けてきましたが、それは軍人としては当然のことであり、現在は大東亜戦争下であり軍人として国防第一線の激戦場で戦うのが軍人としての真の任務であり、本懐であり、その望みは達せられたのである、いよいよ征途につかんととして居ります再び生還は期しておりません。
必ず人に負けない働きをして大東亜戦完遂の一端を果たさんとして居ります。決してご心配くださいますな、私もお父さんの子です幾多の戦友に別れて今まで苦労を供にしてきた人達に涙を以って別れました。男泣きです、米英何者ぞ必ずこの足下に蹴散らして彼らの息の根の根までを止めてやります、七度生まれて国敵を滅ぼす覚悟です。自分のことばかり申して申し訳ありません。末筆ですが、お父さん、お母さん、兄上、姉上、妹よ、長いあいだお世話になりました。二十数年のご恩はこの死によって償わせてください。お父さん、お母さんの長寿を、兄上、姉上にはご多幸を祈ります。妹よお前たちも身体だけは丈夫にして、しっかり父母様のために立派な孝行をしてください。兄は今、護国の神としての栄誉を担う死に就かんとしております。心は冷静です、世の中に思い残すことはありません。
一意国家の存亡を負って戦います。爪と髪の毛を同封しておきます、海山のご恩は死すとも忘れません、色々のことを書きました。しかしこれは己の幸福を表徴(ひょうちょう)するものです、この二十四年間は本当に幸せでした』(原文のまま)
との長文の遺言書である。 
 私は生家に立ち寄った際に母ツルから受け取り読んで、敗色濃い最激戦地に送り込まれる弟の心の中を想像し、『私は生まれ育った故郷を思い、家、山、川、父母、姉兄、弟妹、に一目でもいいから逢って死にたいと思う悲痛な叫びを聞いておいて下さい』と言っているように思えて沈痛な気持になったが努めて平静を装った。
「誰でも最前線に向う時は、遺言状と爪と髪は送ってくるそうだから、みんなで無事に帰ってくることを祈ろうよ」と言うより仕方がなく寂しそうに肩を落としている母にその遺言状を返した。
昭和十九年五月中旬だった