長子誕生と俊雄の死・敗戦・裏切り

     長子誕生と俊雄の死
 しばらくして、兄俊雄が健康を取り戻したので、兄嫁ヒロさん、父母、わたしたち夫婦もひと安心と言うことになった、間もなく兄嫁も予定日を迎え無事に男児を生んだ。祖父になる仁太郎は内孫が男だったので大いに喜び、大切に所持していた姓名學の本などを引っ張り出して慎重に検討して照洋となずけた。
俊雄も無事に職場に復帰し、仕事に励めるようになっていった、一家の相続人としての我が子ができたことで張り合いが出たようで、成長を楽しみに日々を過ごせるようになった様子だった。因みに兄俊雄の長男照洋は昭和十九年八月十八日である、貧困と戦時下の混乱それに伴う不自由な時代の暮らしの中で石井家にとっても兄俊雄にとっても彼の存命中の束の間ではあるが幸せの日々だったのだと思う。それから四ヶ月後、昭和十九年十二月、俊雄の病気の再々発である。田奈部隊の医務班軍医官の診断に寄れば病状はきわめて重篤であると言うのだ、当時は肺結核で重態といわれれば、再起不能、末期症状のことをいい、死の宣告に等しいものだった。父母、兄嫁、私たち肉親は奈落のそこに突き落とされるとはこのような事かと、暗く重苦しい気持になった。
 まだ結核の治療法や薬も開発がなされておらず、まして無謀な戦争にすべをつぎ込んで国民にはひたすら窮乏をしのげと言う時期に満足な治療など望むほうがおかしいと言われそうな世間があった。
私達もなすすべもなくただ不安の日々を過ごさざるをえなかったことが知れると親しくしていた近隣や友人もひたすら感染を恐れて寄り付かなくなっていった。親族関係のものさえ足が遠くなり、家人でさえ感染を嫌うため接触を少なくするものである、そんななか年老いた父母や妹たちが献身的に看護に当たっていた。
 私たち肉親のものは、軍医からの宣告におどろいたが望みだけは無くしていなかった、この病には栄養をつけることが必要であること、長期の療養が必要なことなどのことは知っていたので、私はさっそく勤務先の直属上官である竹内栄三郎軍曹に兄の病状をつぶさに打ち明け、田奈部隊の工員給食用の牛・豚肉、鮮魚類などを特別有価配給を願い出て許可され、買い求め勤務交代明けの日に持ち帰り生家に立ち寄り、兄嫁に渡していたのだったが、それとて充分な量とはいかず、せいぜい一週間に食肉800グラム、鮮魚とは名ばかりの鯖、小鰯、ニシンぐらいなものであったが平素から無口な兄が病床で沈みがちになりながらも、大変に喜んでくれて「空け番で大変だろうが少し話してゆかないか」と私を引き止めた、そのときの兄の顔が四十年を経たいまでも鮮明に残るのである。
 いろいろみんなで手を尽くし、励ましたりしたが兄の病状は徐々に悪化してゆく、見る見る痩せ衰えてきて苦しそうにする日が多くなる、ちょうどそんな頃(昭和十九年末〜二十年初冬)私たちの大家石井家の物置の二階の居間に疎開してこられた方がいた、東京の深川から戦禍を避けてこられた野寄雅子さんという人で、ご主人は産婦人科の開業医で当時は南方戦線に出征中の野寄国太郎軍医中佐の夫人である。家族は小学生の息子二人とご主人の甥に当たる青年で順天堂以下大学生の方がいた、婦人は大変気さくな性格な方で隣り合わせた私たちに気さくに接し、私たちの粗末なドラム缶の風呂に、男の子二人を連れてきて喜んで入り楽しんでいるようなところがある方だった。特に妻トシとは特に親しくお付き合いして下され姉妹同様に打ち解けてくださったので、妻も心から打ち解け、病床の義兄のことなども話した。話を聞かれた夫人は身内のことのように心配され同情されて、「私の親しい知り合いの先生で、国交断絶になったアメリカのハワイから引き揚げ玉川学園駅前で内科医院を開業されている東福寺与四郎先生に頼んで見ましょう」と言ってくだされ紹介してくれたのでる。
 東福寺博士はすぐに兄の病状を診てくだされ、家人を屋外に呼ばれ「患者の衰弱がはなはだしいので、この際、投薬による科学医療が先決なのだが、私の手元にはそのような薬剤もないし戦時下なので開業医にはことさら手に入らないのです」というのであった。それを聞いていた野寄夫人は「それでは私がお薬を差し上げましょう」と言われ、疎開の際に東京から持ってこられ大切に保管されていた貴重な薬を進んで提供されたのであった。その後夫人は毎日のように生家に寄ってくだされ、家人に消毒したマスク、ガーゼ、薬用アルコール液、白衣(病人用)なども提供してくれ看護上の注意など事細かく指示してくだされたうえに、病に臥す兄にも力強よく慰めてくれたのだという母の話を私はどんなにか深く受け止めたことだろう。いかに医師の夫人であり医療知識に詳しい人とはいえ、私の妻と仲良しになったとはいえ、親身をとおりこすほどの献身的好意には驚くしかなかった私と妻はただただ感謝し、心の底に焼き付けるしか恩返しのすべはなかった。
 夫人の激励の後、兄はすこし元気を取り戻したようになり今まで家族にも話さなかった少年の頃から青年期にかけての思い出話や苦労話、出征時の中支戦線における中国人との交流の思い出などを、野寄夫人のみか私の妻にまで、時間の経つのを忘れ、体の疲れるのも気にせずこまごまと話して聞かせてくれたそうである。そんな話を妻から聞いた私は妙に気になった。
 兄は少年の時から極めて無口な人で家のものは勿論、他人に対しても必要な事以外話しをするということもなかった、周りの人他とも安易に近づけないような雰囲気を持っていた。寡言実行と言う人であり、努力精進型とも言えるタイプの人だったが世間の人にも職場の上司や同僚、部下たちにも信頼が厚かったのも愚痴めいた事、不満など一切口にしなかったがゆえなのだろう。そんな兄が、いくら病の床にあるとはいえ野寄夫人ばかりでなく私の妻にまでそのような打ち解けた話をとは、以外であったし一抹の不安がよぎったのである。予感は的中した。そんなことがあってから三日目、兄俊雄の様態が急変したのである、東福寺医師から「長くてあと一週間か十日ぐらいです」と告げられた、また「これはまことに申し上げにくいことだが、今後は必要最小限のもの以外は病室に出入りしないこと、入る場合は必ず消毒した白衣、マスクを着用し、風邪など引きやすいアレルギー体質の人は入らぬように、十歳未満の子供は絶対に病室に入れないように」など細心の注意で接するようにとのことを申し渡された。
 痩せ細った兄は、もう流動物もノドをとおらなくなるほど重態だったが意識ははっきりしていておのが命の尽きるのが近いことを悟り、妻のヒロさんを枕元に呼びよせ、あえぎ苦しみながらまだ六か月の幼児、照洋に残し置く遺言をヒロさんに語り、書き残させた。瀕死の病床でいたいけな我が子に遺言を残す俊雄、涙ながらに書き綴る兄嫁ヒロさんの胸中。兄俊雄の胸中。私は刻み込むように凝視した。東福寺医師も臨終真近の兄の苦しみを見るに忍びず、臨終は安らかにとの配慮から、秘蔵のドイツ製の催眠薬ナルコポン、モルヒネなど注射薬を提供してくださり、医療法で許可された分量を処方箋に書いて野寄夫人に渡し、注射を依頼されたのだった。おかげで俊雄は安らかとはいかないまでも、断末魔の苦しみもなく家人たちの見守る前で枕辺に付き添う母に子供のように子守唄をねだり、母は涙ながらに痩せ細った我が子の手を握りながら御詠歌を唱えて、長男の臨終を看取ったのだという、この際のことは、妹寿美代と妻トシから聞いた。私は当日勤務日だったので朝から出勤。翌日の朝八時に勤務明け後退だったが、その日兄危篤の知らせを受けて作業を同僚にまかせて、生家に駆けつけたが、兄は最早意識もなく、痩せ衰えていたが安らかな顔で永眠していた。私は兄の頭をさすりながら何か言おうとしたが、胸が詰まって言葉にならなかった。
兄の知らせを聞いて駆けつけた長女エイの夫、義兄の加藤正一さんと二人でとりあえず家人を遠ざけて、病室を兄ともども消毒、表雨戸、障子を開け放して外気を入れた。消毒液で水浸しになった病室の畳は、外に持ち出し日光に晒し、兄の遺体を始末して北枕に向け線香をともし皆を呼びいれ義兄と共に頭を垂れ、なきながら冥福を祈ったのを昨日のことのように憶えている。その夜身内だけの寂しい通夜を済ませ、翌十二日、上のうちの大工鳥海酉蔵さんのご厚志で急造されたお棺に兄の遺体は納められ、整然の勤務先である田奈部隊から軍用トラックに乗せられ、直属の上官秋元治三郎准尉が同乗、ほかに庶務班から若い男子職員三人、家族側からは私と加藤正一義兄が棺に付き添い、横浜野毛山火葬場で荼毘に付して翌日十三日、形ばかりの告別式を行い、初七日を済ませて菩提寺である念仏宗寺院、松岳院の墓地に埋葬した。

 昭和二十年二月十一日 石井仁太郎・ツルの長男
 新帰元徳山俊勇居士位(しんきげんとくざんしゅんゆうこじい)
 俗名、石井俊雄   (享年三十四歳)     合掌。



     付 記
 『その遺言書はそれ以降、三十八年後の夏、昭和五十八年八月二十六日、今は亡き私の妻トシが当時の兄嫁ヒロ、すなわち照洋の生母からへその緒と共に受け取り、母親を引き継いだ節、小さな木箱に入れて大切に保管していたが、私はそれがどこにあるのか知らなかったのであったが、亡き妻四十九日の法要のあとの形見分けの際に、亡妻の衣類ダンスの小引き出しの奥のほうに保管してあったので、翌日八月二十七日に照洋に手渡した、照洋にとっても実父からのただひとつの遺品である』

     敗 戦
 昭和十九年に入ると国内の在郷軍人は底属と応召、後備役二十九歳から三十五歳までの中年層の在郷軍人召集令状を受け、いたいけな子供を抱えきょう明日の生活さえままならない妻や家族を残して、親族や近隣に後のことを託して『名誉の出征』という偽りの栄光を押し付けられ戦場に送り出される彼らの胸中は悲しいほど哀れなものであった。第一、第二乙種の在郷軍人会員もつぎつぎに応召、追い討ちをかけるように二十歳未満の学徒まで動員されるというまでになり、そのようにして送り出される人々に待っているのは末期的戦場でありただ死ぬために行く様なものであった。しまいには三十五歳までの丙種合格兵役免除の者にも徴兵検査が実施された。私も丙種合格兵役免除であったにもかかわらず、鼠径ヘルニアを手術で治していたせいか甲種合格となり、兵科も野砲隊に編入されて、即日横浜連隊区司令官・小山大佐から甲種合格野砲兵科であることを申し渡され、3ヶ月以内に召集令状が届く故、身辺の整理をしておくようにと申し渡されたのであった。私は大佐の前では「はい、ありがたいであります」と大きな声で答えたのであったが、内心「俺もいよいよ召集か、戦争に行くのは嫌だなあ」と心の底から思いながら意気消沈した。 戦況は悪化の一途をたどり、国内では本土防衛に国防婦人会が結成されて防火、防護、救護、の各訓練が連日のように行われ家庭の主婦は老人、病人を除き全員が出動を強制されるるようになった、私は徴兵検査の結果を直属上司の竹内栄三郎曹長に報告、妻にも告げて令状が届いても人前では決して取り乱さないようにと言いふくめた、昭和十九年六月下旬だった。
 すでに私の職場である炊事班では組長山本好栄さんなど先輩、同僚のほとんどが応召されており、兵役義務のある者は、村田富蔵、土志田勝男の両氏と私の三人だけであったが、間もなく土志田さんは招集された、残る二人はもう覚悟を決めるしかなくもういつきても不思議はないと思うようになった。それから一ヶ月ほどしたある日の午後、村田富蔵さんと私は別々に会計総班本部の呼ばれ班最高上司である鈴木圭治主計大尉からの申し渡しで「君たちは当部隊炊事班にとって欠くことの出来ない必要要員であるので召集されては今後の炊事班諸業務に支障をきたすので本日付で召集延期願いを横浜連隊区司令部に提出しておいたゆえ当分は召集令状は来ないから安心して業務に励むように」との指示を受けたのである。
「このことはたとえ家人であろうとも絶対に口外してはならぬ」との命令であった、私は内心ホッとして大尉に一礼してその場を退いた。呼出し命令を受けて出頭したときの緊張感は吹っ飛び、喜びを胸に足取りも軽く職場にもどった、そのときの私の職務は炊事班糧秣出納係主任で一日の食料延べ四千人分の出納責任者であり、村田富蔵さんは炊事班作業現場の責任者としての組長で私は副組長を兼ねていた。戦局は日を追うごとに敗色濃厚になり十九年七月にはサイパン島の日本軍守備隊の全滅や十月にはフィリピン、レイテ島の米軍上陸、十二月にはレイテ島の日本軍が全滅し二十年一月にはルソン島米軍大部隊が上陸、二ヵ月余りの死闘のすえ、最後の国運をかけての決戦も陸海空、三軍が全滅状態であったというが、終戦後明らかにされた当時の記録によれば、ヒィリピン島戦線に投入された陸軍部隊のみの総人数は五十九万人といわれ、それに海、空軍を加えると七十〜八十万人位あるのではないかと私は見ている、戦死した人だけで四十七〜四十九万人といわれているからである。さらに二十年三月十日にはヒィリピン諸島を基地とするアメリカ空軍の、空飛ぶ要塞といわれたB29の大爆撃機の大編隊による大空襲で東京都心はほとんど焼け野が原と化し、何十万人の民間の死傷者が出た。追い討ちをかけるように二月二十五日には米軍機甲部隊が沖縄本島に上陸、三ヵ月間昼夜を分かたぬ戦闘が続き死闘が繰り返された後、米軍に占領されたのである。日本軍の死者七万九千人、沖縄県義勇軍(民間人)十万人の戦死者を出した。ついで、四月九日午前十時頃、B29爆撃機、延べ百数十機の大編隊が横浜市の中心部を空襲したのである。焼夷弾の大量投下による空襲であったので、市街は山の手を除き一時間足らずで焼け野が原となった。この空襲で何千何万の死傷者があったのか定かには知らないが大変な犠牲者だったろうことは想像できた。
 私はそれから二日後の四月十一日の午前中、上司の竹内曹長たちと軍納糧秣品の引取りのため、軍用トラックに便乗公用外出で横浜市中央卸売市場に向かう途中、生々しい爆撃後の惨状を目撃したのである、そこここに焼けくすぶる家屋、焼け落ちた家屋の下敷きになり焼死している何人かの遺体を車の上から目撃した、おもに子供と夫人の犠牲者だった、私は思わず合掌して冥福を祈るのが精一杯のことだった。
 翌月五月七日、日独伊三国軍事同盟のナチスドイツが無条件降伏しナチス自身は自殺した。イタリアは前の致死に既に降伏していた、七月二十六日には米・英・支・ソ連の四国共同宣言(ポツダム宣言)が日本国に発せられた(ポツダム宣言とは日本に降伏を促したものである)八月六日には広島に原子爆弾が投下され今までに類のない犠牲者と惨状が、地獄絵図のように広島を包み込んだ、その惨状は世界に伝えられ世界中の人びとにかつてない恐怖を与えた。八月九日には今度は長崎に原爆が投下され広島と同じように大変な犠牲者が出た、追い討ちをかけるように、ソ連が対日宣戦布告し中国で既に壊滅的打撃を受けていた日本軍に攻撃を開始したのである。さすがの狂気集団の大日本帝国軍隊も八月十日、ポツダム宣言を受諾調印し八月十五日、昭和天皇による、ラジオ放送により国民に向けて、ポツダム宣言の受諾と無条件降伏による敗戦を告知したのである。いわゆる玉音放送とよばれるものだった。
 多くの日本人は皇居前の広場や、校庭、軍の庭などでひざまずき号泣しながら天皇陛下のお読みになるラジオ放送を押し抱くようにして聞いていたというが、私はそのようにはしなかった、あまりはっきりとした記憶がないのである果たしてその放送をそのとき聴いていたのかどうかすら定かではない。
 これでやっと戦いの狂気から目覚めた、助かったという思いが多くの人の感想だったのだろうと思う、少なくとも私はそうだった。凄惨で忌まわしい戦争がやっと終った、国民の命を犠牲にしながら暴走した日本軍国主義の行き着いたところは、ボロボロの布切れのように変わり果てた国土と、肉親や恋人そして親友を失う苦しみを絶望の果てに押し付けられただけだった。国破れて後、山河も果てしなく荒廃していた。
 しかし、けたたましく鳴る空襲警報、昼夜を分かたぬ空爆から開放された夜を迎えたとき改めて敗戦の実感が胸にせまった。八月三十日、連合国軍最高司令官ダグラス・マッカーサーはマニラから厚木飛行場へ飛行機で飛んできて、コーンパイプをくわえながらタラップを降りた、いよいよアメリカによる統治が始まる。私たちはどうなるのか見等もつかず半ばやけっぱちの心境であると同時に不安をかかえることになった。
私の勤務先の田奈部隊も多少の混乱があった。部隊の周囲にある徴用工員宿舎を兼ねた召集兵兵舎内にある二箇所の糧秣格納庫などは、八月十六日夜中に厳重に鍵をかけていたが大きな扉が破られて、復員直前の兵士や徴用工員の人々によって非常用の食料が略奪された。残りの物もいずれともなく押しかけた者によって持ち去られた。十七日早朝、居残っていた人から知らせを受けて、駆けつけてみると炊事班班長、竹内栄三郎曹長及び村田富蔵作業班組長と私が目撃したのは、二箇所の格納庫の扉は跡形もなく壊されていて、なかの米麦、大豆、コ―リャン等の主要食物はもとより、非常時用の乾パン、乾麺、身欠きにしん、乾燥わかめ、等々根こそぎ持ち去られた。一夜にして暴徒と化す人間の恐ろしさ、弱さなど身にしみて感じたのである。
 昨夜の事件については、食料公団に引き継ぐ糧秣、連合駐留軍に引き渡す兵器、弾薬、以外の物品は殺気立って表門に押し寄せた遠近いずれとも知れぬ群集を鎮めるための手段として仕方なく略奪、持ち去りの行為をとめることが出来ず危険回避のため、部隊長黒川海蔵中佐の責任において放出することを決断したのだという。だが、田奈部隊内にある糧秣庫は三棟あったが、いずれも憲兵隊、警察衛兵隊が厳重に警戒していたので難を逃れたのであった。十七日になると徴用工員の徴用解除、次いで十八日には田奈部隊所属・勤務中兵隊・下士官の応召解除及び部内警戒任務の衛工隊の復員など、それぞれの故郷へ帰還して行った。男女一般工員、徴用工員、男子、女子の勤労学徒、所属中隊兵士、兵器学校火工科兵士、等三千人近い人々が懸命に働いていた火工廠田奈部隊も八月十九日の朝を迎えるとヒッソリと鎮まり、もぬけの殻となり残されたのは二〜三名の将校、五〜六名の下士官それに各職責の残務整理に当たるもの達四十名足らずであった。
 私たち炊事班の者も村田組長ほか五名の者が、残留して炊事作業に当たっていたのであったが、私は糧秣出納責任者であるので、現場作業は村田組長他三名に頼んで在庫の主要食物その他の現品ならびに出納帳簿の整理に専念した。その後九月中旬、解雇手当、給料として二千七百五十円の支払いを受け残務整理に費やした一か月の報酬を食料と引き換えにして上司の竹内曹長から受け取り支払い証書を渡し、受領書を受け取り、丸四年勤務した田奈部隊を後にした。その買い受けた米麦、乾麺、食用油などは生家の老父母、兄嫁、妹二人、甥、の六人家族に全部置いてきたので生家のみんなは食糧難をなんとか凌ぎ、栄養失調にならずに済んだ。妻には米三升、乾麺十束、食用油二升、だけであったが妻は大いに喜んだ。私たち夫婦もそうだが、世の中の人のほとんどが敗戦によって全てを失ったのである。それも私たちだけでなく一億の人民が失意と失業の世の中に投げ出されたのである、嘆き悲しんでいる暇はないほど疲弊した民衆は、明日をも知れない明日を生きていかざるをえなかった。私たち夫婦もまた『儘よッなる様にしかならないさ』まずは当分食い物もあるし心配や苦労は後回しにして、当分はゆっくりしてるかと言う心境になった。妻も「死ぬも生きるもあなたと一緒だからね」などと案外落着いていたので、しばらく静かにしていればそのうち世間も落着いてくるだろう、たかが夫婦二人が食べていくぐらい何とかなるだろうとのんきに構えることにした。
 そんな戦後間もない十月のある日、土地の顔役であり当時横浜市会議員であり田奈農協の組合長でもあった三澤重元さんが私を訪ねて見えた。ここの地域でも資産家の五指にはいる地主の方である氏は当時四十五歳の男盛り、分別盛りの時だったが、父仁太郎とは常に懇意にしていただいていて気が合う人のようだった。
 その三澤さんからの用件は、私と村田富蔵さんの両名に旧軍用農耕地の管理方を引き受けてくれないかというものである、群雄農耕地とは戦時中田奈火工廠会計総班炊事班所属の農務班という農耕組織があり、荒地を開墾して耕作し野菜その他を生産していた軍用地のことである、総面積は四千五百坪ほどあった。
 終戦後、GHQ総司令部の指令により財閥解体、農地改革自作農創設法が敷かれたので旧軍用農地は地元奈良町の農家に有価配分されるとのことであるのでそのときまでの管理方を委任すると言う話で、ぜひ引き受けてくれとの頼みであった。私は村田さんと話し合った結果、将来旧軍用農地を分配してもらうという付帯条件をつけ無報酬で農地および作物の取り入れの作業を管理する事を引き受けたのである。十一月初旬、用地内の水田の稲は石井、村田の両家の家族総出で刈り取り、もと兵器学校の講堂内に格納し川和警察署員が検分並びに立会いのもとに田奈農業協同組合増産班に引渡し、農地管理を終了し旧軍用農地の有価配分の時を心待ちにしていた。

     裏切り

 昭和二十年二月初旬、旧軍用農耕地が地元の農家に払い下げ配分も確定したとの噂が奈良町内に流れ、わたしたちの耳にも入ってきたが私や村田さんには何の通知も連絡もないのである。三月になっても四月には入っても三澤氏からは何の通知もなく音沙汰もない、私はいささかいぶかしく思い、ひとりで三澤宅を訪れ、何回も頭を低くして是非旧軍用農耕地の配分の人別に加えてくれるように頼んでみたのであるが、三澤氏は「誠に気の毒だが、現在私のおかれている立場からしても専業農家ではない君たち二人は農地の分配は不可能である」と繰り返すばかり。
 騙された、この野郎、俺を騙しやがった。お人好しの二人の者を、優位な立場を利用して無報酬で働かせ挙句の果ては農地の配分の仲間に入れないという、その狡猾なやりくちに私のはらわたは煮えくり返った、人をコケにするのも程がある、私は挨拶もする気が無くなるほどの自分に耐えながら三澤家を後にした。
このままでは腹の虫が治まらぬ。その足で村田さん方に行き事の次第を話し「俺たちを踏み台にするにも程がある、この上は手段を選ばず非常手段に訴えても軍用農地の配分運動を起こそう」と意気込んで村田さんに同意をうながしたが、村田さんは私の剣幕にたじろぎながら「それならやむを得ない、俺は農地の配分は諦める、俺の家には多少だが田畑があるので軍用農地はあきらめる」と言うのだった、私は孤立してしまった、共同歩調を組む相手がなくなった。だが私はまだ諦めてはいなかった。いや、諦め切れなかったのだ、何としなければならない何か方策は見つからないものかと。
 なぜにそれほどまでこだわるかというと、兄俊雄が亡き今、私は一家の中心になり生活を支え、組み立てなおさなければならないだろう、弟敬敏は最後の手紙をくれた後、今だに消息がわからない。
 終戦後は、父の恩給、年金も支給停止になり収入がなくなりめっきり老け込んだ両親は三歳になったばかりの甥っ子照洋とその母未亡人ヒロさん、まだ若い妹二人たちを抱えて栄養のあるものも口にできず、迫り来るのは飢だけである。そんな時家族の窮状を見てみぬふりをするような非情なことは私には絶対できない。
私の身に付いているのは農業技術である、三十を過ぎた今から新しく技術を持つのは無理だろうから、農業を生活の基本にしてある程度の自給をせねばならない。こんな店もないような山村で生きていくにはどうしても自給による食料の確保は欠かせない、そのための農地はどうしても確保しなければならない事情があった。私は高ぶる気持を鎮めるためにあれやこれや思いをめぐらせたあげく、はたと思い当たったことがあった。少し強引なやり方ではあったが、三澤氏の最も近い親類で三澤氏のお気に入りである人で、私の知人でもある裕福な農家の主人、井上博良氏にいきさつを話し、三澤氏に再考してくれるよう執拗に頼みこんだ。  
 私の話を一部始終聞いていた井上氏も即答をしかねて暫く考えてから「ところで石井君、君は旧軍用耕地でなければ不承知なのかね」と言うので「いやいや何も軍用地でなくとも構わないのですが」と答えると「それなら私のうちの田んぼを貸してやろう、実は昨年まで貸していた石井源次郎さんが突然死んでしまったので今のところ貸す人がいないんだ、石井君がやると言うなら貸しますよ」と、「そうして貰えるならありがたいことです」私はその場で約束を交わした。