長子誕生と俊雄の死・敗戦・裏切り

     長子誕生と俊雄の死
 しばらくして、兄俊雄が健康を取り戻したので、兄嫁ヒロさん、父母、わたしたち夫婦もひと安心と言うことになった、間もなく兄嫁も予定日を迎え無事に男児を生んだ。祖父になる仁太郎は内孫が男だったので大いに喜び、大切に所持していた姓名學の本などを引っ張り出して慎重に検討して照洋となずけた。
俊雄も無事に職場に復帰し、仕事に励めるようになっていった、一家の相続人としての我が子ができたことで張り合いが出たようで、成長を楽しみに日々を過ごせるようになった様子だった。因みに兄俊雄の長男照洋は昭和十九年八月十八日である、貧困と戦時下の混乱それに伴う不自由な時代の暮らしの中で石井家にとっても兄俊雄にとっても彼の存命中の束の間ではあるが幸せの日々だったのだと思う。それから四ヶ月後、昭和十九年十二月、俊雄の病気の再々発である。田奈部隊の医務班軍医官の診断に寄れば病状はきわめて重篤であると言うのだ、当時は肺結核で重態といわれれば、再起不能、末期症状のことをいい、死の宣告に等しいものだった。父母、兄嫁、私たち肉親は奈落のそこに突き落とされるとはこのような事かと、暗く重苦しい気持になった。
 まだ結核の治療法や薬も開発がなされておらず、まして無謀な戦争にすべをつぎ込んで国民にはひたすら窮乏をしのげと言う時期に満足な治療など望むほうがおかしいと言われそうな世間があった。
私達もなすすべもなくただ不安の日々を過ごさざるをえなかったことが知れると親しくしていた近隣や友人もひたすら感染を恐れて寄り付かなくなっていった。親族関係のものさえ足が遠くなり、家人でさえ感染を嫌うため接触を少なくするものである、そんななか年老いた父母や妹たちが献身的に看護に当たっていた。
 私たち肉親のものは、軍医からの宣告におどろいたが望みだけは無くしていなかった、この病には栄養をつけることが必要であること、長期の療養が必要なことなどのことは知っていたので、私はさっそく勤務先の直属上官である竹内栄三郎軍曹に兄の病状をつぶさに打ち明け、田奈部隊の工員給食用の牛・豚肉、鮮魚類などを特別有価配給を願い出て許可され、買い求め勤務交代明けの日に持ち帰り生家に立ち寄り、兄嫁に渡していたのだったが、それとて充分な量とはいかず、せいぜい一週間に食肉800グラム、鮮魚とは名ばかりの鯖、小鰯、ニシンぐらいなものであったが平素から無口な兄が病床で沈みがちになりながらも、大変に喜んでくれて「空け番で大変だろうが少し話してゆかないか」と私を引き止めた、そのときの兄の顔が四十年を経たいまでも鮮明に残るのである。
 いろいろみんなで手を尽くし、励ましたりしたが兄の病状は徐々に悪化してゆく、見る見る痩せ衰えてきて苦しそうにする日が多くなる、ちょうどそんな頃(昭和十九年末〜二十年初冬)私たちの大家石井家の物置の二階の居間に疎開してこられた方がいた、東京の深川から戦禍を避けてこられた野寄雅子さんという人で、ご主人は産婦人科の開業医で当時は南方戦線に出征中の野寄国太郎軍医中佐の夫人である。家族は小学生の息子二人とご主人の甥に当たる青年で順天堂以下大学生の方がいた、婦人は大変気さくな性格な方で隣り合わせた私たちに気さくに接し、私たちの粗末なドラム缶の風呂に、男の子二人を連れてきて喜んで入り楽しんでいるようなところがある方だった。特に妻トシとは特に親しくお付き合いして下され姉妹同様に打ち解けてくださったので、妻も心から打ち解け、病床の義兄のことなども話した。話を聞かれた夫人は身内のことのように心配され同情されて、「私の親しい知り合いの先生で、国交断絶になったアメリカのハワイから引き揚げ玉川学園駅前で内科医院を開業されている東福寺与四郎先生に頼んで見ましょう」と言ってくだされ紹介してくれたのでる。
 東福寺博士はすぐに兄の病状を診てくだされ、家人を屋外に呼ばれ「患者の衰弱がはなはだしいので、この際、投薬による科学医療が先決なのだが、私の手元にはそのような薬剤もないし戦時下なので開業医にはことさら手に入らないのです」というのであった。それを聞いていた野寄夫人は「それでは私がお薬を差し上げましょう」と言われ、疎開の際に東京から持ってこられ大切に保管されていた貴重な薬を進んで提供されたのであった。その後夫人は毎日のように生家に寄ってくだされ、家人に消毒したマスク、ガーゼ、薬用アルコール液、白衣(病人用)なども提供してくれ看護上の注意など事細かく指示してくだされたうえに、病に臥す兄にも力強よく慰めてくれたのだという母の話を私はどんなにか深く受け止めたことだろう。いかに医師の夫人であり医療知識に詳しい人とはいえ、私の妻と仲良しになったとはいえ、親身をとおりこすほどの献身的好意には驚くしかなかった私と妻はただただ感謝し、心の底に焼き付けるしか恩返しのすべはなかった。
 夫人の激励の後、兄はすこし元気を取り戻したようになり今まで家族にも話さなかった少年の頃から青年期にかけての思い出話や苦労話、出征時の中支戦線における中国人との交流の思い出などを、野寄夫人のみか私の妻にまで、時間の経つのを忘れ、体の疲れるのも気にせずこまごまと話して聞かせてくれたそうである。そんな話を妻から聞いた私は妙に気になった。
 兄は少年の時から極めて無口な人で家のものは勿論、他人に対しても必要な事以外話しをするということもなかった、周りの人他とも安易に近づけないような雰囲気を持っていた。寡言実行と言う人であり、努力精進型とも言えるタイプの人だったが世間の人にも職場の上司や同僚、部下たちにも信頼が厚かったのも愚痴めいた事、不満など一切口にしなかったがゆえなのだろう。そんな兄が、いくら病の床にあるとはいえ野寄夫人ばかりでなく私の妻にまでそのような打ち解けた話をとは、以外であったし一抹の不安がよぎったのである。予感は的中した。そんなことがあってから三日目、兄俊雄の様態が急変したのである、東福寺医師から「長くてあと一週間か十日ぐらいです」と告げられた、また「これはまことに申し上げにくいことだが、今後は必要最小限のもの以外は病室に出入りしないこと、入る場合は必ず消毒した白衣、マスクを着用し、風邪など引きやすいアレルギー体質の人は入らぬように、十歳未満の子供は絶対に病室に入れないように」など細心の注意で接するようにとのことを申し渡された。
 痩せ細った兄は、もう流動物もノドをとおらなくなるほど重態だったが意識ははっきりしていておのが命の尽きるのが近いことを悟り、妻のヒロさんを枕元に呼びよせ、あえぎ苦しみながらまだ六か月の幼児、照洋に残し置く遺言をヒロさんに語り、書き残させた。瀕死の病床でいたいけな我が子に遺言を残す俊雄、涙ながらに書き綴る兄嫁ヒロさんの胸中。兄俊雄の胸中。私は刻み込むように凝視した。東福寺医師も臨終真近の兄の苦しみを見るに忍びず、臨終は安らかにとの配慮から、秘蔵のドイツ製の催眠薬ナルコポン、モルヒネなど注射薬を提供してくださり、医療法で許可された分量を処方箋に書いて野寄夫人に渡し、注射を依頼されたのだった。おかげで俊雄は安らかとはいかないまでも、断末魔の苦しみもなく家人たちの見守る前で枕辺に付き添う母に子供のように子守唄をねだり、母は涙ながらに痩せ細った我が子の手を握りながら御詠歌を唱えて、長男の臨終を看取ったのだという、この際のことは、妹寿美代と妻トシから聞いた。私は当日勤務日だったので朝から出勤。翌日の朝八時に勤務明け後退だったが、その日兄危篤の知らせを受けて作業を同僚にまかせて、生家に駆けつけたが、兄は最早意識もなく、痩せ衰えていたが安らかな顔で永眠していた。私は兄の頭をさすりながら何か言おうとしたが、胸が詰まって言葉にならなかった。
兄の知らせを聞いて駆けつけた長女エイの夫、義兄の加藤正一さんと二人でとりあえず家人を遠ざけて、病室を兄ともども消毒、表雨戸、障子を開け放して外気を入れた。消毒液で水浸しになった病室の畳は、外に持ち出し日光に晒し、兄の遺体を始末して北枕に向け線香をともし皆を呼びいれ義兄と共に頭を垂れ、なきながら冥福を祈ったのを昨日のことのように憶えている。その夜身内だけの寂しい通夜を済ませ、翌十二日、上のうちの大工鳥海酉蔵さんのご厚志で急造されたお棺に兄の遺体は納められ、整然の勤務先である田奈部隊から軍用トラックに乗せられ、直属の上官秋元治三郎准尉が同乗、ほかに庶務班から若い男子職員三人、家族側からは私と加藤正一義兄が棺に付き添い、横浜野毛山火葬場で荼毘に付して翌日十三日、形ばかりの告別式を行い、初七日を済ませて菩提寺である念仏宗寺院、松岳院の墓地に埋葬した。

 昭和二十年二月十一日 石井仁太郎・ツルの長男
 新帰元徳山俊勇居士位(しんきげんとくざんしゅんゆうこじい)
 俗名、石井俊雄   (享年三十四歳)     合掌。



     付 記
 『その遺言書はそれ以降、三十八年後の夏、昭和五十八年八月二十六日、今は亡き私の妻トシが当時の兄嫁ヒロ、すなわち照洋の生母からへその緒と共に受け取り、母親を引き継いだ節、小さな木箱に入れて大切に保管していたが、私はそれがどこにあるのか知らなかったのであったが、亡き妻四十九日の法要のあとの形見分けの際に、亡妻の衣類ダンスの小引き出しの奥のほうに保管してあったので、翌日八月二十七日に照洋に手渡した、照洋にとっても実父からのただひとつの遺品である』

     敗 戦
 昭和十九年に入ると国内の在郷軍人は底属と応召、後備役二十九歳から三十五歳までの中年層の在郷軍人召集令状を受け、いたいけな子供を抱えきょう明日の生活さえままならない妻や家族を残して、親族や近隣に後のことを託して『名誉の出征』という偽りの栄光を押し付けられ戦場に送り出される彼らの胸中は悲しいほど哀れなものであった。第一、第二乙種の在郷軍人会員もつぎつぎに応召、追い討ちをかけるように二十歳未満の学徒まで動員されるというまでになり、そのようにして送り出される人々に待っているのは末期的戦場でありただ死ぬために行く様なものであった。しまいには三十五歳までの丙種合格兵役免除の者にも徴兵検査が実施された。私も丙種合格兵役免除であったにもかかわらず、鼠径ヘルニアを手術で治していたせいか甲種合格となり、兵科も野砲隊に編入されて、即日横浜連隊区司令官・小山大佐から甲種合格野砲兵科であることを申し渡され、3ヶ月以内に召集令状が届く故、身辺の整理をしておくようにと申し渡されたのであった。私は大佐の前では「はい、ありがたいであります」と大きな声で答えたのであったが、内心「俺もいよいよ召集か、戦争に行くのは嫌だなあ」と心の底から思いながら意気消沈した。 戦況は悪化の一途をたどり、国内では本土防衛に国防婦人会が結成されて防火、防護、救護、の各訓練が連日のように行われ家庭の主婦は老人、病人を除き全員が出動を強制されるるようになった、私は徴兵検査の結果を直属上司の竹内栄三郎曹長に報告、妻にも告げて令状が届いても人前では決して取り乱さないようにと言いふくめた、昭和十九年六月下旬だった。
 すでに私の職場である炊事班では組長山本好栄さんなど先輩、同僚のほとんどが応召されており、兵役義務のある者は、村田富蔵、土志田勝男の両氏と私の三人だけであったが、間もなく土志田さんは招集された、残る二人はもう覚悟を決めるしかなくもういつきても不思議はないと思うようになった。それから一ヶ月ほどしたある日の午後、村田富蔵さんと私は別々に会計総班本部の呼ばれ班最高上司である鈴木圭治主計大尉からの申し渡しで「君たちは当部隊炊事班にとって欠くことの出来ない必要要員であるので召集されては今後の炊事班諸業務に支障をきたすので本日付で召集延期願いを横浜連隊区司令部に提出しておいたゆえ当分は召集令状は来ないから安心して業務に励むように」との指示を受けたのである。
「このことはたとえ家人であろうとも絶対に口外してはならぬ」との命令であった、私は内心ホッとして大尉に一礼してその場を退いた。呼出し命令を受けて出頭したときの緊張感は吹っ飛び、喜びを胸に足取りも軽く職場にもどった、そのときの私の職務は炊事班糧秣出納係主任で一日の食料延べ四千人分の出納責任者であり、村田富蔵さんは炊事班作業現場の責任者としての組長で私は副組長を兼ねていた。戦局は日を追うごとに敗色濃厚になり十九年七月にはサイパン島の日本軍守備隊の全滅や十月にはフィリピン、レイテ島の米軍上陸、十二月にはレイテ島の日本軍が全滅し二十年一月にはルソン島米軍大部隊が上陸、二ヵ月余りの死闘のすえ、最後の国運をかけての決戦も陸海空、三軍が全滅状態であったというが、終戦後明らかにされた当時の記録によれば、ヒィリピン島戦線に投入された陸軍部隊のみの総人数は五十九万人といわれ、それに海、空軍を加えると七十〜八十万人位あるのではないかと私は見ている、戦死した人だけで四十七〜四十九万人といわれているからである。さらに二十年三月十日にはヒィリピン諸島を基地とするアメリカ空軍の、空飛ぶ要塞といわれたB29の大爆撃機の大編隊による大空襲で東京都心はほとんど焼け野が原と化し、何十万人の民間の死傷者が出た。追い討ちをかけるように二月二十五日には米軍機甲部隊が沖縄本島に上陸、三ヵ月間昼夜を分かたぬ戦闘が続き死闘が繰り返された後、米軍に占領されたのである。日本軍の死者七万九千人、沖縄県義勇軍(民間人)十万人の戦死者を出した。ついで、四月九日午前十時頃、B29爆撃機、延べ百数十機の大編隊が横浜市の中心部を空襲したのである。焼夷弾の大量投下による空襲であったので、市街は山の手を除き一時間足らずで焼け野が原となった。この空襲で何千何万の死傷者があったのか定かには知らないが大変な犠牲者だったろうことは想像できた。
 私はそれから二日後の四月十一日の午前中、上司の竹内曹長たちと軍納糧秣品の引取りのため、軍用トラックに便乗公用外出で横浜市中央卸売市場に向かう途中、生々しい爆撃後の惨状を目撃したのである、そこここに焼けくすぶる家屋、焼け落ちた家屋の下敷きになり焼死している何人かの遺体を車の上から目撃した、おもに子供と夫人の犠牲者だった、私は思わず合掌して冥福を祈るのが精一杯のことだった。
 翌月五月七日、日独伊三国軍事同盟のナチスドイツが無条件降伏しナチス自身は自殺した。イタリアは前の致死に既に降伏していた、七月二十六日には米・英・支・ソ連の四国共同宣言(ポツダム宣言)が日本国に発せられた(ポツダム宣言とは日本に降伏を促したものである)八月六日には広島に原子爆弾が投下され今までに類のない犠牲者と惨状が、地獄絵図のように広島を包み込んだ、その惨状は世界に伝えられ世界中の人びとにかつてない恐怖を与えた。八月九日には今度は長崎に原爆が投下され広島と同じように大変な犠牲者が出た、追い討ちをかけるように、ソ連が対日宣戦布告し中国で既に壊滅的打撃を受けていた日本軍に攻撃を開始したのである。さすがの狂気集団の大日本帝国軍隊も八月十日、ポツダム宣言を受諾調印し八月十五日、昭和天皇による、ラジオ放送により国民に向けて、ポツダム宣言の受諾と無条件降伏による敗戦を告知したのである。いわゆる玉音放送とよばれるものだった。
 多くの日本人は皇居前の広場や、校庭、軍の庭などでひざまずき号泣しながら天皇陛下のお読みになるラジオ放送を押し抱くようにして聞いていたというが、私はそのようにはしなかった、あまりはっきりとした記憶がないのである果たしてその放送をそのとき聴いていたのかどうかすら定かではない。
 これでやっと戦いの狂気から目覚めた、助かったという思いが多くの人の感想だったのだろうと思う、少なくとも私はそうだった。凄惨で忌まわしい戦争がやっと終った、国民の命を犠牲にしながら暴走した日本軍国主義の行き着いたところは、ボロボロの布切れのように変わり果てた国土と、肉親や恋人そして親友を失う苦しみを絶望の果てに押し付けられただけだった。国破れて後、山河も果てしなく荒廃していた。
 しかし、けたたましく鳴る空襲警報、昼夜を分かたぬ空爆から開放された夜を迎えたとき改めて敗戦の実感が胸にせまった。八月三十日、連合国軍最高司令官ダグラス・マッカーサーはマニラから厚木飛行場へ飛行機で飛んできて、コーンパイプをくわえながらタラップを降りた、いよいよアメリカによる統治が始まる。私たちはどうなるのか見等もつかず半ばやけっぱちの心境であると同時に不安をかかえることになった。
私の勤務先の田奈部隊も多少の混乱があった。部隊の周囲にある徴用工員宿舎を兼ねた召集兵兵舎内にある二箇所の糧秣格納庫などは、八月十六日夜中に厳重に鍵をかけていたが大きな扉が破られて、復員直前の兵士や徴用工員の人々によって非常用の食料が略奪された。残りの物もいずれともなく押しかけた者によって持ち去られた。十七日早朝、居残っていた人から知らせを受けて、駆けつけてみると炊事班班長、竹内栄三郎曹長及び村田富蔵作業班組長と私が目撃したのは、二箇所の格納庫の扉は跡形もなく壊されていて、なかの米麦、大豆、コ―リャン等の主要食物はもとより、非常時用の乾パン、乾麺、身欠きにしん、乾燥わかめ、等々根こそぎ持ち去られた。一夜にして暴徒と化す人間の恐ろしさ、弱さなど身にしみて感じたのである。
 昨夜の事件については、食料公団に引き継ぐ糧秣、連合駐留軍に引き渡す兵器、弾薬、以外の物品は殺気立って表門に押し寄せた遠近いずれとも知れぬ群集を鎮めるための手段として仕方なく略奪、持ち去りの行為をとめることが出来ず危険回避のため、部隊長黒川海蔵中佐の責任において放出することを決断したのだという。だが、田奈部隊内にある糧秣庫は三棟あったが、いずれも憲兵隊、警察衛兵隊が厳重に警戒していたので難を逃れたのであった。十七日になると徴用工員の徴用解除、次いで十八日には田奈部隊所属・勤務中兵隊・下士官の応召解除及び部内警戒任務の衛工隊の復員など、それぞれの故郷へ帰還して行った。男女一般工員、徴用工員、男子、女子の勤労学徒、所属中隊兵士、兵器学校火工科兵士、等三千人近い人々が懸命に働いていた火工廠田奈部隊も八月十九日の朝を迎えるとヒッソリと鎮まり、もぬけの殻となり残されたのは二〜三名の将校、五〜六名の下士官それに各職責の残務整理に当たるもの達四十名足らずであった。
 私たち炊事班の者も村田組長ほか五名の者が、残留して炊事作業に当たっていたのであったが、私は糧秣出納責任者であるので、現場作業は村田組長他三名に頼んで在庫の主要食物その他の現品ならびに出納帳簿の整理に専念した。その後九月中旬、解雇手当、給料として二千七百五十円の支払いを受け残務整理に費やした一か月の報酬を食料と引き換えにして上司の竹内曹長から受け取り支払い証書を渡し、受領書を受け取り、丸四年勤務した田奈部隊を後にした。その買い受けた米麦、乾麺、食用油などは生家の老父母、兄嫁、妹二人、甥、の六人家族に全部置いてきたので生家のみんなは食糧難をなんとか凌ぎ、栄養失調にならずに済んだ。妻には米三升、乾麺十束、食用油二升、だけであったが妻は大いに喜んだ。私たち夫婦もそうだが、世の中の人のほとんどが敗戦によって全てを失ったのである。それも私たちだけでなく一億の人民が失意と失業の世の中に投げ出されたのである、嘆き悲しんでいる暇はないほど疲弊した民衆は、明日をも知れない明日を生きていかざるをえなかった。私たち夫婦もまた『儘よッなる様にしかならないさ』まずは当分食い物もあるし心配や苦労は後回しにして、当分はゆっくりしてるかと言う心境になった。妻も「死ぬも生きるもあなたと一緒だからね」などと案外落着いていたので、しばらく静かにしていればそのうち世間も落着いてくるだろう、たかが夫婦二人が食べていくぐらい何とかなるだろうとのんきに構えることにした。
 そんな戦後間もない十月のある日、土地の顔役であり当時横浜市会議員であり田奈農協の組合長でもあった三澤重元さんが私を訪ねて見えた。ここの地域でも資産家の五指にはいる地主の方である氏は当時四十五歳の男盛り、分別盛りの時だったが、父仁太郎とは常に懇意にしていただいていて気が合う人のようだった。
 その三澤さんからの用件は、私と村田富蔵さんの両名に旧軍用農耕地の管理方を引き受けてくれないかというものである、群雄農耕地とは戦時中田奈火工廠会計総班炊事班所属の農務班という農耕組織があり、荒地を開墾して耕作し野菜その他を生産していた軍用地のことである、総面積は四千五百坪ほどあった。
 終戦後、GHQ総司令部の指令により財閥解体、農地改革自作農創設法が敷かれたので旧軍用農地は地元奈良町の農家に有価配分されるとのことであるのでそのときまでの管理方を委任すると言う話で、ぜひ引き受けてくれとの頼みであった。私は村田さんと話し合った結果、将来旧軍用農地を分配してもらうという付帯条件をつけ無報酬で農地および作物の取り入れの作業を管理する事を引き受けたのである。十一月初旬、用地内の水田の稲は石井、村田の両家の家族総出で刈り取り、もと兵器学校の講堂内に格納し川和警察署員が検分並びに立会いのもとに田奈農業協同組合増産班に引渡し、農地管理を終了し旧軍用農地の有価配分の時を心待ちにしていた。

     裏切り

 昭和二十年二月初旬、旧軍用農耕地が地元の農家に払い下げ配分も確定したとの噂が奈良町内に流れ、わたしたちの耳にも入ってきたが私や村田さんには何の通知も連絡もないのである。三月になっても四月には入っても三澤氏からは何の通知もなく音沙汰もない、私はいささかいぶかしく思い、ひとりで三澤宅を訪れ、何回も頭を低くして是非旧軍用農耕地の配分の人別に加えてくれるように頼んでみたのであるが、三澤氏は「誠に気の毒だが、現在私のおかれている立場からしても専業農家ではない君たち二人は農地の分配は不可能である」と繰り返すばかり。
 騙された、この野郎、俺を騙しやがった。お人好しの二人の者を、優位な立場を利用して無報酬で働かせ挙句の果ては農地の配分の仲間に入れないという、その狡猾なやりくちに私のはらわたは煮えくり返った、人をコケにするのも程がある、私は挨拶もする気が無くなるほどの自分に耐えながら三澤家を後にした。
このままでは腹の虫が治まらぬ。その足で村田さん方に行き事の次第を話し「俺たちを踏み台にするにも程がある、この上は手段を選ばず非常手段に訴えても軍用農地の配分運動を起こそう」と意気込んで村田さんに同意をうながしたが、村田さんは私の剣幕にたじろぎながら「それならやむを得ない、俺は農地の配分は諦める、俺の家には多少だが田畑があるので軍用農地はあきらめる」と言うのだった、私は孤立してしまった、共同歩調を組む相手がなくなった。だが私はまだ諦めてはいなかった。いや、諦め切れなかったのだ、何としなければならない何か方策は見つからないものかと。
 なぜにそれほどまでこだわるかというと、兄俊雄が亡き今、私は一家の中心になり生活を支え、組み立てなおさなければならないだろう、弟敬敏は最後の手紙をくれた後、今だに消息がわからない。
 終戦後は、父の恩給、年金も支給停止になり収入がなくなりめっきり老け込んだ両親は三歳になったばかりの甥っ子照洋とその母未亡人ヒロさん、まだ若い妹二人たちを抱えて栄養のあるものも口にできず、迫り来るのは飢だけである。そんな時家族の窮状を見てみぬふりをするような非情なことは私には絶対できない。
私の身に付いているのは農業技術である、三十を過ぎた今から新しく技術を持つのは無理だろうから、農業を生活の基本にしてある程度の自給をせねばならない。こんな店もないような山村で生きていくにはどうしても自給による食料の確保は欠かせない、そのための農地はどうしても確保しなければならない事情があった。私は高ぶる気持を鎮めるためにあれやこれや思いをめぐらせたあげく、はたと思い当たったことがあった。少し強引なやり方ではあったが、三澤氏の最も近い親類で三澤氏のお気に入りである人で、私の知人でもある裕福な農家の主人、井上博良氏にいきさつを話し、三澤氏に再考してくれるよう執拗に頼みこんだ。  
 私の話を一部始終聞いていた井上氏も即答をしかねて暫く考えてから「ところで石井君、君は旧軍用耕地でなければ不承知なのかね」と言うので「いやいや何も軍用地でなくとも構わないのですが」と答えると「それなら私のうちの田んぼを貸してやろう、実は昨年まで貸していた石井源次郎さんが突然死んでしまったので今のところ貸す人がいないんだ、石井君がやると言うなら貸しますよ」と、「そうして貰えるならありがたいことです」私はその場で約束を交わした。

ひらめき・庄三郎さんの遺言書

     ひらめき

 心の底からありがたかった、これで助かった。
 アー良かった、無理を承知で一か八かあたって砕けろだ、駄目ならまた何か考えればよい、そんな思いが届いたような気がした。私はあらためて井上博良さんに深々と頭を下げ、それまでの非礼を詫びたが、好人物ぞろいの家族の人達も我が事のように「サッちゃん良かったね」口をそろえて喜んでくれた。人情歌に『うらぶれて袖の涙のかかるとき、人の情けの奥ぞ知るなり』というのを思い出した。追い詰められて、もうどうにもならないという思いからの行動が好転し、実を結んだのだ、井上家からの帰り道は足取りも軽かった。
 貸していただく田んぼは六畝(百八十坪)ある、これだけあれば何とか飢えは凌げるだろう親父もお袋も安心するだろうという思いで希望が生まれた。
 その年(昭和二十一年)六月中頃、井上さんから借りた田んぼに田植えを済ませると、暫くの間息抜きをして、もとの日本陸軍火工廠田奈部隊から、アメリカ駐留軍に接収されて田奈火薬廠と呼び名も変わった米軍基地に、友人の手引きで人夫として雇われ日当六十円のその日払いの仕事に就いた。人夫として働く者は、ほとんど近郊の村人だったが、それ以外にも何十人かの田郷の者も出稼ぎに来ていた。休憩時間にはいろいろな話が出、面白おかしい話に花が咲くこともあり身の上話などもそのうち出るようになったので、そうなると十年来の知己のように打ち解けてくるものだ。
 その中の一人に兵庫県生まれで終戦後、北支戦線からの復員兵で独身青年で三十一歳の浜谷某という人がいた、彼は仕事が真面目で律儀な性格の人であったがいつもは無口で、なんとなく沈んだような寂しげな面影をしているので、私は時折彼の話し相手になっていたのだが、きっかけをつくってから四〜五日もすると、彼が自分のほうから進んで私に話しかけてくるようになった。そして休みの日曜日などに時折、私の住まいに遊びに来るようになったのであるが、その浜谷某が約一年後に私の亡兄の未亡人ヒロさんの夫になる人とはそのときには想像だにしなかった。
 さて、私の人夫仕事も五ヵ月ほど過ぎるとその年の秋も深まり植えた稲も黄色く実り稲刈りをし、脱穀、籾摺り、が終わり収穫した玄米が三俵(百七十キロ)程になった、まずまずの収穫高だ、当分は植えないですむ、さっそく生家にも分配しよう、きっと喜んでくれるだろう、私たち夫婦は久しぶりに晴れ晴れとした気分で話し合い古い麻袋に玄米をいれた。やっと終って一服しようとしたがタバコがなくなっていた、当時タバコは配給制で二十歳以上の男子のみ、一日あたり三本のみだった。
 わたしはすこしいらいらしていると「貴方はタバコが切れると機嫌が悪くなるのね、あさっては配給日だからそれまで我慢できないの、そばで見ている私のほうがやり切れなくなるわ」と言いつつ「仕方ないわ私は今から実家に帰ってくるわ、実家の兄さんは顔が広いから闇タバコが何とかなるかもしれない」と言うのできつい仕事も嫌な顔ひとつすることもなく手伝ってくれた妻がいたから何とか年を越せる見通しもついたのだから「お前さんは一晩実家へ帰って骨休みでもしてこいよ」と実家に行かせてやった。
 そんな日の夜、あたりがスッカリ暗くなっても電灯がつかない「チェまた停電か」その頃はまだ戦後のドサクサで混乱し、あらゆることが復旧していなかった。一日おきか二日おきには停電があるのは日常茶飯だったが文句も言えない、仕方なくランプをともして独り言を言いながら大豆粕三割、コーリャン三割、半づき米三割の雑炊に大根の葉ト薩摩芋の細かく切ったものを入れた配給食を冷たいまま薄暗い六畳間で食べて、味気無い夜を過ごした。 あとかたずけもしないで冷たい布団にもぐりこんだがなかなか寝付かれずいろいろ考えているうちに停電の事が頭から離れなくなった。
 この調子じゃまだまだ電気が安定して使えるようになるのはかなり先の話だろうなあ、皆大変困っているだろうななどと考えているうちにろうそくを作ったらどうだろうと閃いた。米軍基地から廃棄物としてゴミ捨て場に排出されているパラフィン蝋は相当な量だがあれで簡単にローソクはできないものだろうか工夫次第でできないこともあるまい、細い竹に溶かした蝋を流し込むのはどうか、などと思案した末、ハタと思いついたのは今の住まいの前の川の土手に生えている大名篠だった。大名篠は弓矢、釣竿などに使われる山竹だ。
 そうだあの竹がいいなどと考えをめぐらすうちに朝になってしまった、そのまま着替え田んぼの向うの川の淵から大名篠を切ってきて持ち帰り、型筒の製作に取り掛かり、あれやこれやと試作してみた。朝飯もとらずに作っては失敗、失敗しては作り、ほぼ思いどうりの型筒を二本作り上げたのは午後一時過ぎになっていた、やれやれ出来たと、昨夜の残りの雑炊を食べ一息ついていると妻が実家から戻ってきた。
 義兄に世話になり手に入れたかなりの量の闇タバコを風呂敷包みから出して一本だけ私の手に置くと「あまりたくさん吸ってはいけませんよ、あしたは配給日だからね」と言いながらも上機嫌だった。私は妻に停電の話をしながら、二本の型筒を見せて蝋燭を作る話をすると、初めは呆れていたが余りにも熱心に話すので、次の日からあれやこれやと手伝い、三日がかりでようやく不細工ではあったが長さ十七センチ、周囲三センチ、二時間四十分も灯る蝋燭が出来上がった。
 終戦後、爆撃で破壊された発電所や変電所の復旧は困難で、復旧までには相当の時間がかかる、極度の物資不足なので懐中電燈、電池、灯油、ローソクなどは売っていないのであった。米軍基地から放出されるパラフィンはゴミの山の中に相当ある、今の内に拾い集めておいてローソクにすればいい、必ず売れるだろうと思ったのだ、集めたパラフィンは六十キロ位あった。 仕事の合間を見て五十本百本と作ったが初めは誰も買ってくれなかったが、十日二十日と経つうちに噂を聞いた人たちが二人三人と訪ねてくるようになり、一本五円のローソクを五本十本と買いに来てくれるようになったのである。
 元手いらずで一日当たり百五十円、二百円と収入が出るようになると私たちはとても嬉しかった、気をよくした私は更に八十キロのパラフィンを拾い集め、これだけあれば原料は充分だとローソク作りに励んでいると、表障子の外で誰かが来ている気配がしたので障子を明けると、カーキ色の作業服、濃紺のズボンにゲートルを巻いた地下足袋履き、五分刈り頭で四十年配の男が立っている、私は警戒して男の顔を見つめると「イヤー突然お伺いして申し訳ありません、決して怪しい者ではありません、私はこの村の関根高一の従弟で鈴木三五郎といいます、まことにぶしつけで失礼ですが貴方がローソクを製造している石井さんですか」私は少し間をおいて「いやいや製造しているというほどの事はありませんが、作っていることは事実ですが、素人作りの品物ですから、不細工でとてもお店で売れるような物ではないですよ」と笑いながら答えると、男は「いやいや不細工であっても途中で消えさえしなければね」といいながら私の顔をチラッと見たのである。
 私はとっさに、ハハーこの男は闇屋だな、それなら俺のほうにも考えがある、と何気なく聞こえるように「その点なら保証できますよ、外見は素人くさいですが原料はそこにもある、ここにもあるというような物ではありません何しろ旧日本軍の弾薬調整に使った本物のパラフィンですから、何なら今から部屋の中でお茶でも飲みながら実験したらどうですか、昨日こられた方も同じ事を言われて百本ほど買っていかれました」「私はその方にはっきり言いましたよ、途中で消えるようなことがあったらローソクは引き取り、代金はお返ししますとねところで鈴木さんお住まいはどちらですか」と言うと、「町田の寺町に二十年ほど住んでおります」ということで話が合い座敷に上がりこんでもらって、お茶を飲みながら、ローソクを三本灯し実験をしたが、結果は上々、鈴木さんは百本のローソクを買い求めて夕方お帰りになった。
 そして次の日の夕方、再び訪れて「石井さん昨日はとんだ失礼をして済まなかった、あちらの問屋でも大層よろこんで珍しい品物が手に入った何本でも良いから引き受けるそうですから、他所には売らずに私のほうに回してくれ」と言うのであった。節分を繰り上げて飛び込んできた福の神である。ヨシッ、これで取引先は決まった、一本でも多く作って納めなければと次の日から大名篠の筒型を倍増し妻と二人で量産体制に入った。
 ローソクは筒型の篠竹以外は米軍基地から出る廃品の山から拾い集めたパラフィンを溶かしたもの、芯糸は厚めの木綿の布切れをほぐしたものにした、筒竹の内側に塗る油は自動車の廃油で、筒竹を二つに割り上下をしっかり抑える輪ゴムは自転車のチューブを細く輪切りにしたもの、全て廃品なので原料費はタダだ。
 まず内側に油を塗った二つ割の竹の片方に芯を入れ、もう片方をピッタリ合わせて上下を輪ゴムで押さえて芯糸は竹ひごのピンでぴいんと張り、古い薬缶の中に溶かした蝋を入れ、溶かした蝋を静かに筒の中に注ぐ。
 竹筒は二十本単位に束ねて一単位にして四角い容器の中に立てておく、そうしておけばこぼれた蝋はまた使える、このようにしてやれば一日三時間もやれば百本か百二十本くらいは製品が出来た。
 昭和二十二年正月三が日が過ぎると、早々にローソクの生産に取り掛かったのである。四日五日で作った製品は六日の早朝、妻と共に小田急線玉川学園から電車で次の新原町田で降り寺町の鈴木三十五郎三択まで持参して二百本を納め二千円を受け取り、その際三日で二百本を納める約束を交し帰り道についた。二月末までには千五百本を納め、三月末までにはさらに二千本を納めたので合計三千五百本を売り、三万五千円になった。四月には入るとそろそろ原料が残り少なくなったので、妻に「人の欲はキリがないというから、またパラフィンが出たら作ればいいさ、こんなぼろ儲けは当座の事に決まっているよ、俺ワまた軍の人夫にでも出るから、お前さんは家にいて気が向いたらローソクを作るとも、近所の手伝いをするとものんびりと過ごせばいいよ」「ともかく三万のお金が貯まったんだから一〜二年は気楽に暮せるのだからがつがつするこたーないさ、また原料でも入ったら作ればいいさ」と言うと「そうね、あんまり欲張ると罰が当たるわねー」と笑顔でいうのであった。結婚以来四年間、愚痴も言わず、私のような男についてきて呉れた妻をあらためていとおしく思い、ヨーシこれからも頑張ろうと思った。
 三月も終ろうとするある日、前日も家に来て茶飲み話をしていった母だったが、また来ているので『ハハーお袋、きのうも来ていたが何か遠慮して言えないことがあるな、米が無くなったかな』と思い「なーんだお袋、きのうはお喋りが過ぎて米のこと忘れたんだろう、きょうは忘れずに女房にもらっていきな」と言ったのだが、母はなんとも言わず黙って私に顔を見つめるだけなので、私たちは不審に思い「お袋、なんかうちに変わった事でもあったのかい」と尋ねると、それにも答えず母は右手に握っていた一通の封書を差し出し力なく「とうとう駄目だったヨ、ユキ(三男敬敏)の戦死の知らせが届いたんだよー」と私の手にその封書を手渡したのである。 
 私はそれを受け取り取り急ぎなかの書類に目を通すと丸特の割り印があり、故陸軍軍曹石井敬敏殿、行年二十四歳、昭和二十年八月九日比島レイテ島・ピリヤバ山に於いて壮烈なる戦死を遂げられたり、第一復員庁印とある、弟敬敏の戦死の公報である。
 母は必死に取り乱すまいと涙をこらえ、傍らの妻に身体を支えられながら「仕方がないユキの友達も五人のうち四人は戦死したんだからなー、おらがのユキだけ助かったんじゃ他所の親御さんに申し訳ないからなあー」と自分に言い聞かせるような言い方をした。
 二年前に長男を失い、敬敏の出征以来無事を祈らなかった日はなかったであろう母は憔悴した心身をやつれた顔に滲ませながら、スッカリ白髪が増えてしまった頭をうなだれて寂しそうに佇んでいるのだった。
私は気を取り直し「俺はすぐに家に行ってみるから、お前はお袋を少し休ませて、後からきてくれ」と言い残して生家へ駆けつけたのである。家には近所に住んでいる二女と三女、上のうちの大工、鳥海さん夫婦が来ていて、仏壇には敬敏の生前の写真と最後の手紙となった遺書と遺髪、爪が供えられ線香が灯されていた、私は皆に目で挨拶をしてから正座し、仏壇に線香を灯し弟の写真に向って手を合わせ口の中で念仏を唱えたが涙は出なかった。
 戦死の公報が届くというのが信じられなかった、戦時中、戦死の広報を受けた後に遺骨が送り届けられ葬儀を済ませた家に終戦後、半年、一年経ってから、戦死したはずの本人が帰ってきたなどという話を見たり聞いたりしたからでもある。私は八歳年下の弟が残されたただ一人の男の身内であり、何とか無事で帰ってきてくれることを日頃から念じていたからでもあるがまさかと思うのである。
陽気な性格で、取り立てて努力型という風でもなく、意地っ張りで一年生の時からガキ大将であった、同級生が苛められてでもいようものなら相手が一つ二つ上の者でも一人で立ち向かっていくような強い性格をしていた、学業も常に上位で高等科二年までの八年間、修了式、卒業式には常に優等賞の証書を受けるような子供だった。親思い、兄弟思いで優しいところがあるので弟というよりも将来の良い相談相手になるかもしれないと期待をかけていた、そんな弟を失うというのである信じられるはずがなかった。
 五年前、満州の陸軍部隊に入隊のためわが家を出発した時、たくさんの人に見送られ行進して長津田駅前通りで見送り人の最前列で義姉と並んで日の丸の小旗を振って、弟の壮途を見送っていた結婚前のつまの姿に気づいて結集地に向う列車内で弟と話した時のことを改めて思いおこしたのである「兄貴、優しそうな娘さんではないか、俺のうちは大家族だからあんまり心配をかけないようにするんだな」と私に語った弟の言葉は私に残した遺言だったのだ、再び祖国の地は踏むことがないだろうという諦めや、決意を秘めた男の悲しい遺言でもあったのだ。そう思うと何か迫るものが私の心の堰を切り落とした、どっと涙が溢れてくるのを止めることが出来なくなってそのまま任せるよりほかはなかった。 弟の戦死公報があってから一ヶ月後、石井の総本家の主人である延良老人から話があった「実は生家の親父さんから何か込み入った話があるから、私とお前さんで一緒に来てくれないかと言うんだがね」と言うので私は延良老人の口調が常と違うのでほぼ見当は付いたが、老人には言わず傍らにいた妻に「きょうは俺だけ行ってくるからな」と言うと妻のほうも察しがついたらしく「すいませんねいつもお世話をかけて」などと何気ない口調で老人に礼など言っているのだった。そのまま私は延良老人と連れ立って生家に行った、家に行き表座敷の障子を明けると、父仁太郎、兄嫁の叔父田後万五郎、兄嫁の長姉の夫村田義勝、長姉の夫の加藤正一、の皆さんが座っているのだった。一座の人たちは延良老人と私のほうに視線を向けたが何もいわなかった。私はやっぱりそうかという思いでいた、弟の戦死が決まった以上、私に生家に戻って欲しいのだな、生家に戻って一家の中心として家族を面倒見てもらいたいということなのだろうと思い、一座の人達に軽く挨拶をして座についたが私から口を開かずに先方の言葉を待ったが一座の中に妻の実家の関係の人がいなかったのをいぶかしく思った。加藤正一さんが口を切った「敬敏さんの戦死が決まった以上、家を継ぐのは幸夫さんしかいないので、このさい幸夫さん夫婦がこちらに戻ってはもらえないだろうかと、先日田後万五郎さんより話があったので、きょうは皆さんにお集まりを願い、意見を聞かせていただきたい」ということだった。
 十秒二十秒、沈黙が続いたが田後万五郎さんが「実はサッちゃん、先日仁太郎さんから話があり、あんたに戻ってもらいたいのだがという相談を受けたのだが」と言ってチラッと父の顔を見て一息ついて「大事な話なので思い切ってお話をするが、俊雄さんの結婚と入れ替えに君たち夫婦がこの家を明け渡す際に、当座の持ち金もないのは知っていたが持たしてやらなかったので、後でおツルさんから届けてやってくれと何度も言われたが、とうとう届けてやらなかったので、いまさら俺の口から戻ってくれとは言い出しにくいとの話をされたので、加藤さんを通して皆さんにお集まりを頂いたわけです」と言われた。村田さんも、延良老人も、仁太郎も皆何にもいわずにいた、言えずにいたのだろう。
 なんと言う父の変わりようだろう、二〜三年前の父ならば他人や子供の前ではそのような弱気な事は絶対吐かなかっただろう、弟の戦死がよほどこたえているのだろうと、戦死公報が余程心身にショックを与えたのだろうと思った。フッと気がついてみると、一座の視線は私に注がれていたので「お話はよく解りました、デスカここでは即答できません、女房もいることですし私の一存では決めかねます、それにきょうは女房の里からは誰も来ていないようですので、後日またお話は承る事にしてきょうの所はこれでお開きにしていただきたい」といった。「そうか、長津田へ話を通さなかったのはまずかったか、俺もうっかりしてたわい」加藤正一兄は自分の手落ちのように一座の人に頭を下げた。

     庄三郎さんの遺言書

 住まいに帰ると妻に事の次第を話したが、その時ばかりは貴方が内に戻るなら反対しませんとも私は嫌ですとも答えずに、立ち上がって何気ない風で夕食の準備に取り掛かった、妻がそのような態度を見せたのは初めてだった、平素は従順な女房もこんな大事な時に自分の里方に話しが行ってなかったことに失望したはずだった。
 それから少し過ぎたころ、長津田の妻の実家から私にとって義父である河原庄三郎が危篤であるとの知らせが届いた、妻も私も知らせを持ってきた使いの人二人にろくな挨拶も忘れるほど驚いた。義父は一週間ほど前に来てくれたばかりである、義母の訪れは度々あり、そのときに生家への手土産などを届けてくれたりすることもあり、末の娘の妻は待ち望んでいたけれど、ここに来てから五年になるが庄三郎は一度も来たことがなくこの前来たときが初めての訪問だったのである。その日は折悪しく不在だった、妻が帰ったときは庄三郎が帰ってから二時間が過ぎていた。
 大家さんからそのことを聞いた妻が家に入ってみると、狭い部屋の手づくりの食卓に小さな風呂敷包みが置いてあり、開けてみると配給タバコの金鵄(ゴールデンバット六十本・二十日分の量)、新しいフランネル布で作った女物の肌着らしき者一枚が入れてあった。
 私は喜び悦に入って「タバコの手土産とはありがたい、義父もタバコを吸うのだがその義父さんがタバコを届けてくれるなんて、なかなか出来る事じゃないよ」などと上機嫌でいると「そうねー男親は娘の亭主は可愛いんだと言うけれど本当なんだねー」「私は近い内に暇をみて何か甘いものでも作って実家に行く事にするわ」と妻も上機嫌だった。そんなことがあった直後のことで妻もあわてた様子で「私はすぐに実家に行きますから貴方は後から来てください」と早口で言いながら身支度をして小走りに市営バスの乗り場へ向った。
 私もなんとなく落着かない気持で、独りの食事を済ませると着替えをし長津田の妻の実家へ着いた。着いたのは三時ごろで、病人の部屋へ入ると近隣の人々と妻の姉たち三人が枕元に付き添っていた。庄三郎は意識はハッキリしていた。長津田の医師奥津先生は「一応危険は通り越しましたが、あと三日か長くて一週間でしょう」と言った。私は枕元に行き顔を覗くと義父はうつらうつらとしていたようだが、薄目を開けつぶやく「なーんだ奈良のサッちゃんも来てくれたのか、わしはまだ大丈夫だよー」と言うのだが、部屋には死臭が漂っていたので私は枕元をそっと立ち妻を別室に呼び「親父さんはあと二日は持つまい、お前はここに泊まって親父さんの看病をしてやってくれ」と言い於いて家人に暇を告げて帰路に着いたのが午後八時ごろである。
 次の日、昭和二十二年四月二十一日。終戦後初の地方選挙の日だった。婦人参政権はまだないときで二十一歳以上の男子のみが選挙権を持つ時代だった。私は投票を済ませるとその足で妻の実家に急いだが到着した時には既に忌中の張り紙が貼られ、近所の人びとらしい人たちがせわしなく出入りしていた。私は急いで部屋に入り周囲の人びとに目礼して亡骸の顔を覆っている白い布をそっとめくり死顔を見た。穏やかに笑みを浮かべているようにも見えた、明け方近くの臨終だったという、臨終一時間前までは果汁などかわるがわるに飲ませてもらい聞き取れないほどではあるが「うまいうまい」といいながら飲んでいたのだという大往生である。

 河原庄三郎 六十九歳 合掌。
 
 妻の実家は維新前から五代続いた野鍛冶職の家で、妻の父庄三郎で六代目であったが、庄三郎は鍛冶屋を継がなかった、というよりも継げなかったという。理由は少年時代より小心というか、臆病者と言われるような性格で気の荒い大勢の渡り職人の出入りする野鍛冶職が恐ろしくてとうとう一人前になれなかったのだという。代々の鍛冶職をつげず庄三郎で自然消滅になってしまったのだという、そこでやむなく五代目から残された家と宅地、六百坪の畑があったので農家になったのだということなのである。庄三郎は先代の残した僅かな面積の畑だけでは暮らしが立たぬと、妻と共に村役場の用務員を務めたり合間には農作業と少しの暇も惜しんで働いていたという。だが用務員い農作業では両立しないので仕方なく用務員をやめて新聞配達をするようになり十五年ほど続けたそうである。妻が三歳か四歳になるころには既に新聞配達をしていたというから、大正の末ぐらいのことであろう。当時の新聞取次店は中山に一軒だけだった。毎朝三時半ごろ起きて雨の日も風の日も一日も休まず六時ごろには配達を終わり、朝飯を食べると畑仕事に出かけたそうだ。それでも貧しくはあったようで、一男五女の子供たちは尋常小学校の義務教育が終ると、上から順々に他家へ子守り奉公に出されたそうである。庄三郎は年端も行かぬ我が子がわが家を後にするときには子供の手を引いて村境まで見送り、姿が見えなくなるまで見送り、その姿が見えなくなると目頭を抑えているような人だった。
 庄三郎の通夜が終わり近隣の人たちは皆帰った後、残った直系親族と妻の姉四人、長姉は未亡人だがほか夫三人だけである。義母テイが小さな風呂敷包みを相続人である長男の半蔵の前に置き「この包みは二年ほど前から庄三郎さんから預かってくれと言われていたものだが、わしが死んだらこの包みを半蔵に渡してくれ、それまでは誰にも見せずにばあさんが持っていて呉れというのだわたしがあずかっていたけれど、明日お棺に入れる前に渡して置きますよ」というので、半蔵は笑いながら「何だろう」といって「どうせ親父の事だ驚くような物は入っているはずはなかろう、別に改まる事もなかろう、みんなの前で明けてみよう」と気楽に風呂敷包みを開いた。中には新聞紙に包んだ真新しい晒しの肌着一枚、下帯一本、油紙にていねいに包んだ手製の封筒、その中にはなにかしらぶ厚い品物が入っているようであった。半蔵は「なんだ襦袢と褌か、親父さんは用心深い人だったからなー」と苦笑いしながら封筒を手に取ると「随分厳重に封がしてあるなー、何が入っているのだろう」小首を傾げているので、私は遠慮して次の間に移動した、その他の人も移動してきた。
 しばらくすると隣の部屋から半蔵のかみ殺すような嗚咽が聞こえ、声は次第に大きくなり号泣になった。皆驚いて隔てている障子を開けて中を見た、そこには遺骸に取りすがって泣いている半蔵の姿があった。亡父の枕元には、和紙を幾枚か張り合わせた巻紙に筆でたどたどしい大きなカタカナで遺言書らしきものと、何十枚かの一円紙幣の束が置いてある。半蔵さんは涙でぬれた顔を上げて「俺にはここではもう読めない、すまないが皆で読んでくれるか」「俺は知らなかったんだ、今日まで知らなかったんだ」とあとは声にならず大粒の涙をぬぐいもせず一座の前に頭を垂れていた。私は皆が代わる代わる読んだ後最後に読んだ。一座の女たちは皆声を上げて泣き伏していた。その遺書は筆で書かれてはいるがたどたどしいカタカナで、ところどころに易しい漢字が入れてあり判読するのが難しいほどの金釘流だった。
半蔵ヘ、私ハワカイジブンカラ、オクビョウデブキヨウダッタ。ゴセンゾサマカラ、五代モツヅイタカジヤヲ、ツゲナカッタ、ソレデ、ベンキョウモヨクデキテコウトウヘアガリタカッタ半蔵ヲ十四ノトキカラ市ヶ尾ノ、親方ノ家へ年キボウコウニ出シタ。カワイソウダッタガ、今トナレバヨカッタト思ッテイル、私ノカワリニ六代目ノカジヤヲ、ツイデクレテ、リッパナショクニンナッテクレテ、アリガトウ。アノト市ヶ尾ノ親方カラ受ケトッタ三十五円デ、アカッパヤノ、ハタケガタニンノ手ニワタラナクテ、ホントウニヨカッタ。ゴセンゾサマノ、ノコシタハタケダカラ半蔵へワタス。コノ三十五円ハ、私ガ半蔵カラモラッタコズカイセンヲ、ツカワナイデタメテオイタ、カネダカラ半蔵ヘカエス、コレデ私モダレニモ、シャッキンナシダ、バアサン私ガ死ンダラ、ジバント、シタオビヲ、キセテクダサイ、マササン、バアサンヲタノムヨ、オワリ。
 という庄三郎の人となりがとても滲み出た遺言書だった。

就職・照洋の入院・妻の発病・

     就 職
 気持が落着いてくると考える事は、これから先家族五人の生活の事だった。小規模ながら自作農になり食料の確保はほぼ自給の体制は揃ったという強みは持ったが、現金収入が途絶えた状態にある、小額でも良い何か現金収入を得ねばならないと思案を巡らせていたのである。
 私は農業以外に特技も技術も学歴も持たない、その上に頭が良くないことは自認しているし、兄弟妹などは私が鈍重である事を指摘してはばからない、それほどの私であるので誠に心もとない、ただ今まで身体を使う仕事をしてきたし忍耐力は人一倍ある、誠実に働く事にも自信を持っていた。
 そこで行動を起こしたのである、竹馬の友で、長じては私の相談ごとなどに良く応じてくれていた近所の井組政一さんに相談してみようと思ったのだ。政一さんは一年年上で私は子供の頃から兄の様な親しみを持っていた。井組政一さんという人は三十二歳のとき召集令状を受け、妻子を残して横須賀海兵団に入隊したが、優れた成績であったので三等水兵の階級から三段階昇格の海軍兵長として軍務し終戦を迎えると同時に応召解除となり、帰宅しそのまま農業をしていたが、三年後に地元の駐留軍基地に特殊警備隊員として就職し、勤務成績も優秀なので四個小隊のうちの一隊の副小隊長に昇格していた。私は井組政一さんの勤務交代日に自宅を訪ね「貴方のお力でどのような仕事でもいといませんので、基地内の作業員にお世話していただけないか」と頼み込んだところ、根っからの好人物である政一さんは「サッちゃんそんなに改まらなくてもいいよ、ヨシ分かったよ、きょうあしたというわけには行かないが大丈夫だよ、俺がその内いずれかの作業場へ世話してやるよ」と政一さんは快く引き受けてくれたのである。
 それから僅か二日後、午前十時ごろ関根某なる若い警備隊員が訪れてくれて「石井さんに明日午後一時までに米駐留軍田奈火薬廠の警備隊本部事務所に警備員の面接試験に来てくれるようにと、井組副小隊長より言付けがありましたのでご承知ください」という伝言を伝えてくれた、私は「わかりました必ず参ります」と言った。
 私は心が軽かった。軍隊経験のない私が警備員とは、受かるはずがなかろうと思ったのである。どうせあしたの試験は不合格だろう、それなら面接でも大きな声ではっきり受け答えをしよう出来るのはそれくらいだ。と心に決めてそのままグッスリと寝た。翌朝目覚めた時には初秋の日の光も明るく輝き、裏庭の柿木にはツクツクホウシが甲高い声でないていた。母も妻も妹の英子も照坊も朝飯を済ませていたので私は一人で朝飯を終ると、たばこを一服つけていると、妻が私の顔をジッと見てつぶやくように「あなた、きょうの試験は政一さんがせっかく親切に紹介してくれたんだから、運良く受かるといいわね」と言いながら落着かない様子で励ましてくれた。 その日の午後十二時三十分ごろ、米軍田奈火薬廠の正門に着き警備員に来たことを告げると、その人は「解りました先刻十二時交代者から申し送りがありました、貴方でしたか四日前に病気でやめた人の欠員募集に応募された方は、ご苦労様です、ではご案内します」と正門から五〜六メートルのところにある警備隊本部事務所へ案内されたのである。 
 本部の面積は二百坪位だろうか、平屋の建物でそれを半分ずつ分けて消防隊と警備室で使っているようだった。右側が警備室で事務所やら仮眠室などあり、中央に大きな机が置いてあるのが事務所だった。正面の椅子には白人の下士官が腰掛けており、右側には六十過ぎの日本人警備隊長、左側には三十五〜六くらいの日本人通訳が座っていた。面接が始まったが簡単な内容であったので、私は大きな声ではっきり答えると、正面の白人軍曹は通訳のほうを見ながらしきりに頷いているのを見て、私は気が楽になった。筆記試験にいたっては誠にバカバカシイほど簡単であった。紙に鉛筆で、三分以内に住所、氏名、年齢を書くだけだった。バカにされてるのかと思うほどあっけなく終ってしまった。満点合格だと通訳に知らされた時は、こちらのほうが驚いてしまった。
 警備隊長より申し渡されたのは、明日より出勤すること、制服制帽は貸与する、給料は三人の家族手当を含めて月給六千六百円であった。その頃の手当ては他のものと比較しても良い方であっただろう。そのまま家に帰ると皆はあまり帰りが早いのでてっきり落ちたものと思って、慰め顔で何か言おうとしたので私のほうから先手を打って「受かったぞ、試験に受かったぞー」と言うと、「よかったねー、良かったなー」と何回も何回も繰り返して喜んでくれたのだった。このようにして私はまた幾度目かの就職をして農作業もするという生活になったのである。
 昭和二十四年一月一日は家庭裁判所法(民事訴訟法)が制定発布された日である。わが家では亡兄俊雄の遺児であり甥である照洋四歳の養父母になった私達夫婦であったが、養子入籍には生母の事前承諾及び養父母の資格審査が必要となる、そのため私達夫婦は生母ヒロさんと横浜地方簡易裁判所へ出頭指令を受け出廷したがその結果は良ということになった。養育能力もあり私達夫婦に子供がいないことも重要な要員となったようである、いずれにしても亡兄の遺児、照洋は正式に石井家の四代目相続人として決定したのである。
 昭和二十五年はしばらくぶりの安泰に迎えられた年といえた、我が家でも餅がつけて鏡餅、切り餅、お雑煮をゆっくり味わえたのも久しぶりだった。満で年齢があらわされるようにもなり、四月十五日には戦後新憲法下での公職選挙法の公布された。六月六日GHQは日本共産党徳田球一ほか幹部二十数名を公職追放し政治活動からも追放したのである。(レッドパージ)その頃から朝鮮半島北緯四十八度線めぐって、共産圏と自由主義圏の国対関係が険悪化しているという噂が流れていたが六月二十五日、突如として北朝鮮側から韓国側に宣戦が布告され、国境の北緯三十八度線を突破して韓国に侵攻し始めたのである。朝鮮戦争の勃発だった。
 そのため日本国内の米軍駐留軍基地は緊張し、基地内外の警戒及び警備体制も急速に厳重なものとなっていく。田奈火薬廠は奈良町の中央に位置し、逗子池子の弾薬庫の支廠である。朝鮮戦争勃発当初は昼夜を分かたず弾薬の積み出し搬出及び庫内格納作業が続けられ始めたのであるから、労務者の数も大量に募集され、労務者の人数も大幅に増加した。そのため警備体制も変えられたのであった。一昼夜二十四時間交代の二部制から、八時間交代の三部制に切り替えられ人員も四十四名から百六十人余りに膨れ上がったのである。
 私達警備隊員は通常勤務体制から非常勤務体制に切り替えられ、警棒携行警備から、実弾を込めたウインチェスター銃携行の武装体制に切り替えられたのである。そして一日一回のアメリカ式の格闘訓練を行い、月一回の実弾射撃訓練を実施させられたのである。毎日の軍事訓練もさることながら一昼夜三部制には恐れ入った。朝八時出勤して午後四時に勤務明けとなり、次の一昼夜は午後四時出勤で夜中の十二時に勤務明けとなる。次は夜中の十二時に出勤して翌朝八時勤務明けとなる。こうなると昼間の農作業が出来なくなる、そのため遅れがちになるのであった。
 そのため幼い照洋の世話を年老いた母ツルに任せ、慣れぬ身体で鍬や鎌を握り農作業や燃料の薪など集めたりせざるを得なかったのである。慣れない農作業は小柄なトシにとってさぞかし辛い仕事だったろうと思うのであるが長いあいだよく耐えてくれていた。
 年は結婚前から肥厚性鼻炎だったそうであるが、私はとくだんの注意もしなかったし気もつかなかった。生活にゆとりのない時ばかりで無関心であったこともある。それがいつしか蓄膿症になっていたようだ、しかも相当悪くなっていたようだが気づかなかった。その年の十月の中頃だったか、照洋と戯れていた時、照洋の後ろ頭がトシの鼻の付け根にぶつかったとき、トシの涙腺から黄色みがかった膿のようなものが滲み出ていた。私は驚いてトシに正すと、寂しげな顔をして「もう蓄膿症が相当悪くなっていて、この頃では昼も夜も頭が重いので、もうこのまま一生治らないだろうと、今ではもう諦めているのよ」と言うのである「何を言うんだ、蓄膿症は手術をすれば治ると言うし、相模原国立病院へ行けば有名な先生がいるということだから、あしたは明け番だから一緒に国立病院へ行って診察してもらおう」と説き伏せるようにいって妻を納得させた。
 診断はかなり進んでいるのですぐに手術しましょうということで二日後に手術する事になった。手術は三時間に及ぶものだったが無事に成功したとのことだった。三週間の入院で退院した。術後、担当した医師の話によれば、あと二〜三ヵ月遅れれば眼孔を犯され脳神経を犯され手術は不可能だったそうだ。脳神経を犯されればトシは廃人同様になっていただろうと言う事で、話を聞いたあとで私はぞっとした。
 昭和二十六年七月、朝鮮戦争の休戦協定締結が調印された、朝鮮南北戦争がとりあえず終わりを告げたと言ってよい。その一〜二ヵ月後から駐留軍労務者の人員整理(首切り)が始まったのである。私達の警備員も約半数が整理または配置転換された。まだ八十数人が残っているので、第二第三の人員整理があるかと不安の日々を過ごすことになる。そこら辺が国内民間会社と異なり明日の雇用保証がない駐留軍労務者の泣き所である。
 私は就職後三年以上であったので、古参組みは対象外ということで一応の安心材料はあったのだが、その年の九月、連合国と日本政府との平和条約及び安全保証条約が締結されたので、日本国内の駐留軍基地も非常体制から平常体制にもどり、奈良町の田奈火薬廠の警備隊組織も逗子池子火薬庫から相模原淵野辺キャンプの組織下に組み込まれたのである。それは田奈火薬廠が日本通運株式会社の下請けからせいふの直属に移ったと言う事である、皆大いに喜んだのだった。その結果、井組政一副小隊長や私などは現状のまま残留ということで、とうぶんは人員整理などに怯えなくてすむという安堵感に救われたのである。そして、私達警備の勤務体系も朝鮮戦争勃発以前の一昼夜二十四時間交代制の二部制に戻されたのである。  
 また以前のように空け番を利用して農作業が出来るようになったのである。前年、蓄膿症の手術をしてすっかり健康を取り戻した妻がまめまめしく働いてくれたので滞りなく楽しい日が続くのである。

     照洋の入院
 昭和二十七年九月中頃の事だったと思う、私は明け番で家仕事をしていた午後三時半ごろの事だ。妻と二人で足踏み式の縄綯機(なわないき)で稲藁の縄を編む作業をしていた時の事だった。照洋が泣きながら、左目を抑えながら帰ってきた。妻が心配して「照坊どうした?」と聞くと、遊んでいるときはさみを持った義弟の上から覗き見をしていたら何か取ろうとした義弟の手が滑って、手にしていた、にぎり鋏の先が目に当たったというのだった。「どれどれ」と私が見てみると、左目の黒目のところが白濁している、そして瞳のところに傷があった。涙の様な水みたいなものがたくさん出たと言うのである「父ちゃん何も見えないんだ、皆白くなってて何も見えないんだ」と言うではないか、これは大変だ私も驚いてしまったが、猶予は出来ないと思った。
傍らの妻に「すぐに医者に行かないと大変なことになる瞳がやられている、もたもたしてると取り返しのつかないことになりそうだ」と妻を急がせた。妻も驚いて「照坊それじゃ今から母ちゃんと一緒に、町田の目医者に行こう」と身支度もソコソコに町田に急いだのである。私ももう縄を編んいるどころではなくなった、母ツルも気が気でなくそわそわしだしたが帰るまではどうしようもない待つのみであった。夕方ようやく帰ってきたときにはツルは駆け寄るようにして「トシどうだった?」とせきたてるように聞いたところ、町田の女性の眼科医は「最早、個人病院では治療するのは無理なほどの怪我なので、きょうは化膿止めの注射をしておきますから、明日早く相模原の国立病院へ行ってください、国立病院には最近、埼玉国立病院から転勤してこられた先生で、日本でも三本の指にはいるくらい有名な眼科の医師がおられるので、私が紹介状を書きますからあした国立病院へ入院してください」ということになった。
 当時は完全看護という体制は整っていなかったので、照洋が病院に慣れるまでと、手術のあと一週間くらい妻が付き添いで病室に寝泊りする事になった。そして、手術を急がなくてはという診断が出たのである。一度目は白濁した部分を取り除く手術でこれは完璧に成功した。
 二度目は最初の手術から三週間の後、今度は瞳についた傷を修正するもので、出来れば視力の回復になればとのことだった。だがさすがの名医と言われた医師だったが壊れたガラスレンズを修正するようなもので、完全にと言うわけにはいかず、それでも〇、〇一までは回復したのである。当時の事情から見ると驚くほどの回復だったというべきだろう。
 なお、最初の診断で後二日遅くなってしまえば手術の出来る状態ではなくなってしまうほど水晶体液がなくなってしまっただろうとの事だった。照洋は四十五日ほど入院をしていたがさいわいなことに、無事失明を逃れ退院してきたのだった。そのまましばらく休んでいた学校へまた通えるとうになった。入院中同級生を連れて見舞いに来てくれた先生たちにお礼の挨拶を妻に頼み、ひとまずほっと一息ついたのだった。
 さて、しばらく何事もなく平穏に過ごす年が続き、誠にのんびりとした日々があった。昭和二十九年春、わが家の隣接荒廃地(国有地)二百四十坪があるので大蔵省管財局、横浜地方財務部管財第二課より借り受けて、開墾して水田をつくり米を作った。秋の収穫時には三百キロ近くの収穫があった、当時まだまだ物資の不足はあったので白米は銀シャリといわれ主食の王者だったから三百キロの余剰米は相当額で売れた、わが家の家系も少しずつ楽になってきたのであった。昭和三十一年秋には、石井家の先祖、祖父母、父、兄、弟などの追善供養をしようと思い町田の加藤石材店に依頼し、石塔を作って我が家の菩提寺、松岳院の墓地に建立し法要供養をすることもできた。昭和三十三年春までは比較的平穏な日々を楽しんでいた、その間にはいくばくかの貯金も出来、ツルにも報告したところ涙を流して喜んでくれたのである。
 その年は朝鮮戦争休戦協定締結後七年が過ぎていたが、私が勤務する米駐留軍田奈火薬廠内にある三十三個所の弾薬貯蔵庫に相当量貯蔵されていた軍事用爆薬、敷設用地雷、ロケット砲弾頭の兵器類はそのほとんどが逗子市池子にある米軍基地池子弾薬庫の方に移送されて、田奈火薬廠のほうには危険な弾薬はほとんどなくなった。そのため田奈火薬廠に働く労務者、警備員、消防要員など総員の六十パーセントが人員整理の対象となり解雇あるいは配置転換を余儀なくされた。私達の所属する警備隊も例外ではなく三十名足らずに縮小されたが、井組政一さんや私などはその対象外であると上司から聞いてまたまた胸をなでおろしたのである。次は基地が日本政府に返還されるまでは人員整理はないであろうと同僚たちも心なしか安心した様子が伺えた。

   妻の発病

 私も順調に来ている昨今を振り返り、この調子ならもう少し農地の買い増しも出来そうだ、そうすれば千五百坪の農地の確保も夢ではないことになる、などと思惑を膨らませたりしていた。そんな年(昭和三十三年)の七月の中頃、妻トシが季節外れの風邪をこじらせてなかなか起きられない、微熱が続き容態も一向に改善してこない、そこで家庭医として長い付き合いの長津田の奥津医師にお願いして往診に来てくれるようにしてもらった。風邪薬などを処方していただいて飲んでいたのだが十五日ほど経ってもよくならない。その上、毎日午後三時頃になると三十八度の熱が出る事が続いていた。先生は長いですねといい念のためレントゲンを撮りましょうかと妻を往診車に乗せて医院まで運び、レントゲン撮影をした。私は結婚以来小柄な身体ではあるが健康であり、蓄膿症の手術をした以外は医者にかかったことさえなかったので、別に心配もせずにいた。
 ところがトシがレントゲンの結果を聞いてきてほしいというので長津田の奥津医院を訪ねて聞いてみた。あいにく医師は往診に出ていて留守だったが、奥さんに伝言された内容を伝えられたところに寄れば、病状は予想してた以上に進んでおり、重症ともいえるほどである、とても開業医の手に負える状態ではないというのであった。私は驚きながらショックをおさめようと駅のベンチに腰掛てしばらく考えた。気を取り直して妻の実家へより義兄の半蔵さんに相談に行った、そこへ奥津医師が来てくださり相談の結果、妻にはまだ初期の肋膜炎程度だから相模原国立病院へ入院加療すれば三ヵ月くらいで退院できるだろうということで、本人にあまり不安を持たさないようにしようと一致した。
 二日後、奥津医師の紹介状を携えて国立病院へ入院、内科二号棟別棟、結核患者専用病棟にはいり闘病生活が始まった。後日、同病院の主治医、中村医師より改めて説明を受けた。病名は肺結核で安静度二度というかなり重症であるということであった。たとえ病状が順調に回復に向ったとしても退院して自宅療養になるのには三年くらいかかるでしょうとのことだった。当時の結核はまだ法定伝染病に指定されていなかった。そのため保険に入っていても医療費の五十パーセントを支払わなければならなかった、私の月給は三万二千円であった。医療費は月額四万八千円、祖の五十パーセントを支払うと手元には八千円しか残らない、七十三の母ツルが家計を切り詰めてくれたので何とか成ったわけであった。私は一切の事を母にお願いし仕事に専念できたのも、若い頃から貧困のなか多くの子供を育てて、健康を保ち続けてくれた母がいたから切り抜けられたのだという思いがして頭が下がるのである。
 当時は健康保険制度も国民保険制度も任意のもでしかなかった。またやむなく貧困に陥り困窮していても生活保護法や母子家庭救護法などは名目ばかりで、民生委員制度はあったのだがその土地の顔役の肩書きになったに過ぎず、真に貧しい人の役に立っていたとは到底思えないような時代だった。国民皆健康保険制度、国民皆年金制度は三年後(昭和三十六年)であったと記憶している。
 結核は当時でも死の病といわれ大変恐れられていた、とくに肺結核はなかなか治らない、ひとたび感染し発病すれば軽いうちに治癒しなければ長いあいだ病み続ける厄介な伝染病でその上治療費が高い。そのため多くの家庭ではこの病気を発病する事は大変な負担と強いられるのであった。このため自宅療養ということになり、家族とは別の物置きなどに急ごしらえされた病床に臥すのである。私の兄は母屋の座敷ではあったが、戦時中ゆえ満足に医者もいなかった。が、前述したようにたまたまの好意にあい、最後は医師に見てもらえるという幸運に浴したが、ほとんどの人はじりじりと死を待つのが当然の様な死にかたをしたのである、それがほとんどの一般の家庭の状態だった。
 その点では妻はかなり結核に対する理解も設備も整いつつあった時期だったので国立病院に入院できたのが幸いだった。だが主婦のいない家庭は味気なくもの寂しい空気が重くのしかかる。年老いた母も、照洋もお互い口にはしなかったが随分と寂しい思いもしただろうし、心もとなかったのだろうと思った。安静度二度というかなりの重さで入院したときから、私は十日ごとに面会にかよっていたが病棟内の面会室での面会は許されなかった、看護婦控え室から消毒したガーゼのマスクを渡されてそれを付けて、患者の病床から三メートル離れて面談するようにとのことで、面会時間は五分を限度とすること、等々看護婦長から申し渡され、規定に違反した人は次の面会はお断りする事にいたしますので悪しからずお含み置きくださるようにとの厳しい条件がついた。なお、五歳未満の児童はいかなる条件にあろうとも面接は一切禁止であった。
 そんな面会をしながら妻の快方を祈りつつ月日が経っていったのである、そして入院以来四ヵ月がすぎたころ、主治医の中村医師より医師控え室へ来るようにと看護婦長より伝言された。私は内心ドキッとした、やはり重いのかと思いながら、どんな事を言われても動揺しないようにしながら控え室に向った。恐る恐るドアを開けて一礼して医師の顔を見たら中村医師はニコニコとして口を開いた。「さて石井さん貴方にわざわざおいで頂いたのはほかでもありませんが、実は奥さんの病状についてですが、入院当初のレントゲンでは右肺の上部に、直径五センチ位の空洞がありましたのでかなりの重症でしたが、きのうのレントゲンでは半分の大きさになってますよ、予想以上に回復しておられます、あと二年もすれば退院できるでしょう。自宅療養になれば月に2階の通院で済むようになりますよ」といってくれたので、私は安心し、良かった良かったと独り言を言いながら帰路に着いたのである。そして、入院も五ヵ月、八ヵ月と経過する頃には妻の症状は医師も驚くほどの回復を見せ、同室の患者仲間にもうらやまれるほど順調に回復していった、入院後十一ヵ月には二泊三日の外泊まで許可されるまでに回復したのである。
 そして、昭和三十五年より全ての結核性疾患には法定伝染病の指定がなされ、医療費、入院費が国費となり私の負担が無くなったのであった。その間、大変な時、母ツルのやりくりと頑張りのおかげで、他人はもとより、親戚、縁者に至るまで一切経済的負担をかけずにやってこれたのは、ひとえに母のお陰であり、留守の皆が健康でいてくれたのが何よりだった。

実家の蘇生・兄嫁の再婚・新生活・冷たい対応

     実家の蘇生 
 義父の葬儀も過ぎ、四十九日の法要にも妻と参列を済ませる頃はもう春だった。井上氏から借りた田んぼの田植を済ませ、休む間もなく大矢さんの田植を手伝い春の農作業が終わって一息する頃には六月になっていた。久方ぶりに生家を訪ねた、父母もよろこび、ことに母は妻の里方の父の死を悼み慰めごとを言ったりしていたのでその間、父と二人で家の外回りを見て歩き、荒れ果てたというより朽ち果てたというべきほどに傾きかけた母屋を見て、なんとも言えなかったが咄嗟に思ったことは、兄が亡くなって二年半、年老いた義父母、三歳の子供を抱え、里方からは復籍されては困ると言い渡された兄嫁ヒロさんの立場を思わずにはいられなかった。
 妻を一足先に返したあと久方ぶりに父母と話をしていると、町内会長の土志田晋吉さんがひょっこりと訪れてみえた。土志田氏は戦後、多数の町民からの強いての要望で戦後初の奈良町町長を引き受けた人である。若干三十七歳の町長は人望のあるインテリで、日大政経学部を出た若手町長だ。土志田町長は父に就任の挨拶を言った後「実は先日、田後万五郎さんから聞いたのですが、幸夫君、君は生家に戻ってくれと頼まれたそうだが、例の旧軍用農地配分の話はどうなったかね、貴方もあれこれ随分運動していたらしいが」というのである「土志田さん、今となっては万事終わりですよ責任者の三澤重元さんに突っぱねられたので、ほかの誰も相手にしてくれなかったですから」と答えると「イヤイヤそんな事はないさ今からでも遅くはないよ、幸夫君キミが百姓になる気があるのなら俺が万事引き受けてやってもいいんだがそれにはひとつ問題があってね、いや難しいことではないんだ」と次のような条件を話してくれた。
 小作農家が自作農家になれる条件の第一は、昭和二十年十月二十日以前に一反(三百坪)以上の面積を耕作していた農家に限られる事。第二は引き続き農耕を維持できる事を確認できる事の二項目を地区の農地調整委員会事務所において認めたる者によるとの条件であった。私は即座に「ありますあります、親父さんが以前借金をして、抵当流れにしてしまった、かまど谷戸の畑で一反二十四歩を終戦の年まで私がやっていました、今は井組勇吉さんが作っていますが、昭和二十年に私から井組さんに耕作権を渡した農地です。上講中の人なら皆知っていますよ」とまくし立てるように私はいった。
 土志田さんは笑いながら「それは良かった、それで条件は揃ったよ、ヨシ!近いうちに俺が農地調整委員会事務所のほうへ報告するが、君が以前この家で耕作していた畑で、地主に返していないのがあるのならこの際届けだす方が良い」というので、父に聞いてみると土志田さんの本家の畑、一反二畝(三百六十坪)三澤藤太氏の畑、四畝一歩(百三十坪)その他八十坪、合計四百七十六坪がいまだ返していないというので土志田さんに伝えると「それは良かったな、どうせ不耕地主の畑は全部小作者に開放するようにGHQから指令があったのだから、俺は本家だろうと三澤家であろうと関係なく開放になる。田畑だけでなく借地している宅地も、開放農地を得たものはこの際買えるよ」「奈良町の農家でも五、六軒の農家がそうできるよ」といってくれた、わが家の窮状を知ってくれていたのだ。私たちは町長に深々と礼をして感謝の言葉を言った。
 その後、昭和二十二年九月末、港北区農地調整委員会田奈地区事務所からの正式な通知があり、農業従事専任者として私ははれて自作農家としての夢が実現したのである。くわえて、奈良町農地委員である井汲嘉平氏の好意ある提言により、荒廃地ではあるがわが家の南側前面の土地三百六十坪の旧軍用地が私名義の農耕地として分け与えられたのである。これはとりもなおさず、土志田晋吉町長の配慮により実現した事で土志田氏のご恩は終生忘れてはいけないことである。
 他方、姉エイの嫁ぎ先である加藤正一が字助太郎谷戸(現奈良北団地)の田んぼ百八十坪を分けてくれたので、我が家の所有地は宅地を含めると五反歩(千五百坪)程に成ったのである。農地の買受代金は私が現金払いで払った。合計金額四千円をすませて、祖父母以来、小規模ながら、初めて名実共に自作農家としての一歩を踏み出したのである。           
     兄嫁の再婚

 私はその日を境にして石井家の荒廃を蘇生させるのは自分しかいなくなったし、この苦境からの脱出は私の肩にかかっていることを強く自覚したのである。私はその日住まいに戻り、一人これからのことを思案しよい方策を探ろうと思索を凝らしたのである。三日、四日、七日と瞬く間に過ぎていったが妙案が浮かばなかった。
ふだん私は良く話す方だが、さすがにこのときは黙って考え込んでいたので妻も心配になったのだろう「貴方のように誰にも相談しないで、独りで考えていると、いつまでたっても埒が明かないでしょう、気分晴らしにどこかへ遊びにでも出かけたら」と言われて、それもそうだと思ったが急にどこへ行こうにも行くあてがない、がふと浜谷君はどうしてるかなーと思いながら『ハッ』としたのだった。私が駐留軍の人夫の仕事を辞めてからは会っていなかった。いまどき珍しい真面目な男で一図気合は下手だが、へんに如才なく立ち回るよりいいだろう兄嫁ヒロさんより三歳年上の三十かちょうどいい。ヒロさんに再婚の気があるのなら浜谷君の様な人ならまず間違いない。そうだ、まず浜谷君に結婚の意志があるかどうかを短刀直入にきいて見てはどうだろうと心に決め妻には言わず家を出た。
 夕方彼が仕事から戻るのを見計らい、下宿先を訪れた、
しばらく雑談したあと話題を変えて、結婚話をした。彼は突然の話にとまどいながら顔を紅くしながら私の顔を見て「じつは私も最早歳も三十一だから結婚はしたくないわけではないのですが」「私のような無一物のうえに、これといって取り得のないよそ者の風来坊に、好き好んで結婚の話を持ってきてくれる人などひとりもなかったんですわ、石井さんが初めてでした」と関西訛りでとつとつと話し始めた。
 生まれたところは兵庫県である、家族は両親と弟、妹の五人で、農家である。母は一人娘で家付き娘だったので父権太郎は婿養子である。自分は尋常小学校を卒業してから、就職しようと役場で戸籍抄本をとったら、婿養子である父権太郎の籍に浜谷秀雄二歳、庶子入籍と記載されていたので、そのときから父は実父ではなく、養父であると知った。母が最初に産んだのは私であることはまちがいない、なぜ二歳になって入籍したのかが疑問だった。四歳のとき弟が生まれてからは母はちょっとした事で私を叱ったり、叩いたりしたが、父がいないときは、私を強く抱きしめながらさめざめ泣いていたことが度々有ったというのである、話しながら思い出したのだろう浜谷君は声を詰まらせ、涙ながらに途切れ途切れに話してくれた。
 「私は兄嫁には再婚の話はまだ話したことはないが、君が結婚の意志があるなら縁談を進めようと思うのだが、後日、君の気持を聞かせて欲しい」と腹を割って話した。少し強引かもしれないとは思ったが気持がそうさせたのだった。
 三日後私は生家へ出向き、父母を交え未亡人の兄嫁に再婚の意思があるかどうかを聞かせてもらえないかと聞きただした。非常識なことかもしれないが、私としては兄嫁自身の考えを知っておかなければならない、この先が進まないという想いがあったのである。
 しばらく誰も話しはしなかった。時折幼い甥ッ子照洋の片言の声以外は何もいうものは無かった。父に隣に座っていた母がポツンと「ソウソウお茶でも入れようかね」と独り言を言いながら腰を上げようとしたとき、兄嫁ヒロさんは決心したように俯いていた顔をあげて、父母と私のほうへ向いてハッキリした口調で「私はこのまま一人身を通したくありません、私のようなものでよかったら縁があれば再婚したいと思います」といささかのためらいもなく、クッキリとよどみなく言い切ったのである。私は心中ホッとした『俺はきょうこの様な行動を取ってよかった、あたって砕けろとはこういうことか』と思った。私はあらためてヒロさんに頭を下げた「ヒロさん突然に来ていきなりぶしつけな事を聞いて済まなかった。でもこのことは責任を持って進めますから、このことは女房以外には話さないし、女房には口止めしておくから信用してやってください、ヒロさんも俺がこんな話に来たことは自分の心の内に納めておいてください」と約束しておいて住まいに戻ったのである。
 亡き兄の連れ合いのヒロさんは、僅かの間の夫を亡くし幼子を抱えているがまだ若い二十七だ。この先長い人生を一人身で過ごすのは残酷だ、健康なよき伴侶を得て暮すのが最もいいのだろうとの思いから、動き出したこの数日間が随分長く感じられた。今からはグズグズしてはいられない、とそれから二日後の日曜日、浜谷青年と兄嫁に我が家に来てもらい見合いの様なものをした。
 その日は私たち夫婦と、ヒロさん、浜谷青年の四人だけでお茶を飲みながら軽い気持ちでの世間話をしながら短い時間だったが、双方とも笑顔など見せながらの和やかな時間をもてたのである。ヒロさんが背負ってきた照洋も傍らの妻にあやされながら片言の言葉をはなし機嫌よくしていた。この子がいたおかげでその場が堅苦しいものにならなかったのもよかった、見合いもとどこうりなく終わり、これで後は結果待ちという段階にまでこぎつけた。私たちは二人が帰った後ホッとしてかおお見合わせた。それから七日ほど過ぎてから双方の意中を聞くとヒロさんは「私のような子持ちの未亡人でよければ」と浜谷青年は「自分の様な何の取り得もない裸一貫の男でよければ」ということなので目出度い話を進めることとなる。
 昭和二十二年八月、浜谷氏とヒロさんの媒酌人にヒロさんにはヒロさんの長姉の夫、村田義勝さん、浜谷氏は私の姉の夫、加藤正一さんの両人におねがいして、浜谷氏の身元保証人は寄宿先の大家さん鴨志田寅吉さんにお願いして仮親としての立場をお願いして、型どうりの結納を取り交わした上婚約が成立した。私たち夫婦は縁談の取りまとめ役であるので、新所帯の住まいを世話せねばならないと思った。
 ちょうど、旧陸軍兵器学校校舎の片隅にある一戸建ての物品格納庫が空いていたので借りることが出来た。内部を改装すれば粗末ながら住まいには成ると思い、知り合いの大工、高橋哲治さんと言う人に改造をお願いし、押入れ、炊事場、便所などを作ってもらいどうやらこうやら住まいらしい物になった。
 昭和二十二年八月吉日、浜谷秀雄(三十一歳)、石井ヒロ(二十八歳)の結婚式が行われた。
 私の生家で行われた結婚式に参加した方々は新郎の仮親の鴨志田寅吉夫婦、義兄加藤正一、ヒロさんの義兄村田義勝、ヒロさんの叔父田後万五郎、石井の総本家から延良老人、わが家から私達夫婦が父仁太郎の代理としてヒロさんに付き添い、滞りなく済んだのである。式が済むと新夫婦は改造の終った住まいに移っていった。甥の照洋は私の母ツルに背負われて生まれた家である石井家を後にしたのである。
 ヒロさんは亡夫である私の亡兄と約束をしていたと言うのである、臨終間際の亡夫、俊雄は照洋を七歳まではどんな状況になろうと自分で育ててくれという遺言をしていたという。俊雄はまだ若い妻が再婚するということを予期していたに違いない。亡兄は私達夫婦が子宝に恵まれないので我が子の養育を委ねるか、あるいは三男である敬敏に委ねるかを胸中に期しての遺言だったのだろう。照洋は石井家の一粒種で相続人でもあるわけだからヒロさんが再婚した場合、石井家に残す方がよいという判断だったのだろうが、物心がつくまでは母親と一緒がいいだろうという思いだったようだ。
 私達夫婦はヒロさんの嫁入り後は当然私達が引き取る者との思いもあったが、遺言では仕方がないので、母親と共に新居に行かせたのである。四季も終わりホッとしたが、少し時間が過ぎるとなんとなくもの足りない空虚な気持ちになった。今まで小さな甥の存在がわが家のにぎやかしと和みのもとであったが、いま、大人ばかりが残されたこの古ぼけた薄暗い家の中には、ぽっかりと穴の開いたようなもの寂しい空気が流れるだけで、みな押し黙ったまま沈黙の世界となった。ことさら母ツルはとても寂しそうだった。朝起きたときから夜寝かせるまでのあいだ甘えて離れなかった孫の照洋がいなくなったのだから。「おかあさん浜谷さんはすぐ近くなのだから、時々私と一緒に浜谷さんへ行って照坊と遊んでやりましょうよ」と妻がそれとなく慰めを言うと「あんまり度々行くと照坊が浜谷さんになつかないんじゃないかねー」と私のほうを見ながら言うので、「お袋何をバカな事を言ってるんだ、照坊はこの家で産血をこぼして臍の緒を切って生まれ育ったこの家のたった一人の相続人だよ、当分のあいだ浜谷君に預かってもらうだけだから、よけいな遠慮はかえって水臭くないか、遠慮しないで遊んでやりなよ」というと、今まで黙っていた父が「そのとおりだ、幸夫のゆうとおりだ、ばあさんあしたにでも先方へ行って様子を見てきな」と言ったのだった。
 その晩は皆なかなか寝付けなかった。夜も更けてみんなが寝床に入ったのは十二時を回っていた、すると間もなくして表の戸をたたく者がして、あたりをはばかるような声ですみませんヒロです、こんな夜中に起こして申し訳ありません。妻は驚いて急いで玄関の戸をあけた、そのまま外へ出て「義姉さんじゃないの照坊が熱でも出したんですか」と聞くと、照坊は母に抱かれながら泣きじゃくり「ばあちゃん、ばあちゃん」と暗い家の中を覗き込みながら祖母の姿を探し求めているのを見て、うちの者はこらえきれずに鼻をすすり、目頭を抑えずにはいられなかった。ツルは走りよりヒロさんから孫を受け取り両手でしっかりと胸に抱きしめたときには、幼子は祖母の首にしがみつき大声でしゃくり泣きしながら離れようとしないので、祖父の仁太郎は「今夜はとりあえず子供は家で預かる、お前は結婚早々にあまり長居をしてはいけない早く帰りな」とヒロさんに言って家の中に戻った。ヒロさんが言うには照洋は日没からは、何一つ口にしないで祖母の姿を探し求めて泣き止む事がなく、ここに来るまでずっと泣いていたのだということだった。
 次の日の午後、母ヒロさんに連れられて新婚夫婦のもとに帰った照洋は「お家へ帰る、お家へ帰る」と言い続けて泣き止まない、新婚夫婦も困り果て途方にくれていたので、心配で見に寄ったツルが「病気にでもなると取り返しがつかないから、当分家にあずかろう」ということになり照洋は生家へ連れ戻されたのである。
その日から、幼子照坊は「かあちゃん」という言葉を一切口にしなくなった。
 生後六ヶ月で実父に死別し、三年後には生母の手からも別れてしまった幼い甥っ子がたまらなく不憫だった。
その後の照坊は片時も祖母から離れようとしなかった、祖母を放さなかった。幼子は祖母に抱かれて安らかにあどけなく安心したように夜よく寝るようになった。生家に住む者たち皆があどけない寝顔を覗き込み安堵の胸をなでおろしたのである。

     新生活

 自作農家としての資格を得たという喜びは、私のみでなく年老いた両親、ことに父は長男亡き後、収入の源であった恩給、年金が敗戦により支給停止となり現金収入が無くなるという窮地に追い込まれていただけにこの度のことはことさらに喜び、子供のようにその喜びを隠そうとはしなかった「俺はもう六十四だし、喘息病みだから、とても百姓仕事の手伝いはできないだろうから、おまえたち夫婦に食わしてもらえればそれだけで充分だ。よろしく頼むよ」と小さな声でポツリといった。
 長男のあと、三男も失った時から父はめっきり年寄りじみてきたし、気弱になった。そしてもの寂しげな表情を見せるようになっていた。往年の憎らしいくらいの自信と、短気な癇癪持ちの性格はスッカリ影を隠していた。傍らから妻も「大丈夫ですよお義父さんお義母さん、もう田んぼも畑も買い受けたのですから、家の人と私で耕して、以前のように米や麦や野菜を作れば、六人家族が何とか生きていけますよ」頼もしい事をいってくれた。
 妻の実家は今長兄が鍛冶屋をやっている、農作業の道具は皆実家で作ってもらい事欠く事はなかった。当時の農作業はほとんどが手作業であり、農業機械が登場するのはまだまだ先の話だ。そんなわけで食料は何とかなったが、燃料がなかった、石油やガスが使えるようになるまでにはまだまだ十年も十五年も待たねばならない。
 そこで家から一キロほど離れた杉の植林地にリヤカーで行き、杉やサワラの落ち葉や枯れ枝を拾い集めリヤカーに積み持ち帰り燃料にしたものだった。
 戦後のドサクサで物資も不足している時代だからどこの家でも似たり寄ったりの生活をしていた。水は井戸から汲み上げる、風呂はドラム缶、燃料が尽きた時は上のうちの大工さんの家でのもらい風呂などお互いに融通しあいながらの戦後生活はしばらく続くのである。
 昭和二十三年一月下旬、父仁太郎は持病の喘息が悪化、重態になり、どっかりと病床に就いた。当時の奈良町は無医村だったので医師が往診にこられない、が、良くしたもので近所の兵器学校が戦後は引揚者住宅になっている。その一角に戦前まで東京の三井物産で嘱託医をしていた人があった。渡辺先生という、父の診断をお願いしたところ診断の跡で私を戸外に呼んで「長くて一週間のいのちでしょう」と告げられた。父自身もう長くはないことを一番自覚していた。母や私達姉弟妹を枕元に呼んで、私や妻あるいは他家に嫁いだ姉や妹にむかい、かたわらでツルに甘えていた幼児照洋の小さな手をしっかり握り、頭をなでながら、あえぎあえぎではあるがしっかりとした口調で「俺はもう二日とは持つまい、おまえたち姉弟妹たちは幸夫夫婦に協力してこの児を無事に一人前に育て上げてくれ」と遺言を残し、翌日永眠した。
 午後三時か四時ごろだったと思う。簡素ではあったが、告別式を行った、父の死を聞きつけた人たちが多数参加してくれたのがせめてもの慰めであった。

 昭和二十二年一月二十一日 
 新帰元勇徳覚仁居士位(しんきげんゆうとくかくにんこじい) 俗名 石井仁太郎  
 享年六十五歳      合掌。

 父の初七日を済ませると、取るものもとりあえず、家の内外の整理と整備に取り掛かったのだが、なにしろ無い無いずくしのわが家の事、家の中はすぐにかたづき、すぐ家の周りの、買い取ったが荒れ果てている南側の元軍用地の開墾作業に取り掛かった。まず、妻が鎌で雑草を刈り取り、それを一ヵ所に集めて焼き、私が開墾用の大きな鍬で掘り起し耕してマングワで細かく砕き、草や篠竹の根を掘り起して二〜三日乾かし燃やして土を平らにして畑にし、一段低い右側は、危険物(ガラスや瀬戸物の破片)丁寧に拾い集め取り除き、整地して三枚の田んぼにした。その結果我が家の耕作地は、田畑共に整備完了したのである。この年作付けできたのは、水稲一反八畝(五百四十坪)野菜類、陸稲など四百五十坪、合計作付面積三反三畝(九百九十坪)となったのである。
 戦中から始まったわが家に降りかかった様々な災禍はひとつひとつ乗り越え、終戦三年目にしてようやく、のどかで安心できる環境に落着いたのである。六十三歳になった母ツル、三十歳の妻トシ、ツルにつかまっているあどけない照洋三歳、皆喜びの表情を浮かべていた。

    つめたい対応

 昭和二十三年六月、第一復員庁、神奈川県支庁という陸軍の終戦処理事務局からの通知で、陸軍関係戦死者の合同慰霊祭を執り行うので参列してくれとの知らせで、その際故石井敬敏殿のご遺骨をお渡し申し上げますので、田名地区遺族会世話人と同道されたしとの通知が届けられたのであった。
 引き取り場所は横浜市鶴見区豊岡長の曹洞宗大本山総持寺の本堂と決められていた。だが不思議な事に当日同行する田奈区域遺族会世話人である恩田町の福生寺の住職が「石井さん弟さんの遺骨箱を包むには白布でなく、色風呂敷か縞の風呂敷を持参してください。奈良町には進駐軍の基地もあるのでアメリカ兵がたくさん駐留している、いたずらに刺激しても仕方がありませんから日本兵の遺骨に見られないようにするためです」と言う伝言があったが、あまり深い意味とは思わずにそれに従った。
 当日、総持寺本堂での慰霊祭も終わり、各方面から参集した多数の遺族は各々遺骨を受け取り大きな白布で丁寧に包み、首にかけ両手に大きい黒枠の写真をしっかりと持ち、家族や親類の者と思われる人々と共に静かに各々引き上げて言ったのだった。幾重にも積み重ねられた遺骨は総持寺の大きな本堂の天井まで届くほどだったから、何百あるいは何千もの数だったろう、だが一人として色付きや縞の布で包んで帰る人はいなかったのである。縞の風呂敷で帰るものは私一人だけであった。
 福生寺住職と一緒に帰路に着いたが、帰りの車内にもそこここに遺族の人たちが乗っていたが、全ての人が白布で遺骨を包み首にかけ各々黒枠つきの大きな写真を両手で支えていたのである。車内の人々はその前を横切る人は黙礼をして通り過ぎるのであった。それは戦争に若い命を捧げた人の対する慰霊のいみであった。
国電横浜線東神奈川から八王子行きの電車の中で小机駅手前まで差し掛かった時、押さえきれなくなった感情が爆発したのである。私は迎えあわせに座っている福生寺の住職にいきなり噛み付くような剣幕で問い詰めたのである。「ご住職お尋ねしますが本日弟の遺骨引取りの場合、縞の風呂敷か色の風呂敷を持参するようにと貴方に言われてきましたが、その指示をしたのは第一復員事務庁の役人ですか、それとも港北区役所の復員事務関係の係員ですか、あるいは川和警察からの指示ですか。
はっきり答えてください、きょう総持寺に集まった人の中に縞や色の風呂敷に包んで帰った人はほかにいましたか、弟はレイテ島で玉砕したのですよ、二十四の若い命を散らしたんですよ!こんな箱を押し頂いてきても、弟の遺骨さえ入っていないんですよ。余りにも冷たい仕打ちじゃないですか」と言って立ち上がり、縞の風呂敷に包んだ箱を解き遺骨箱のふたを開けた。中には白木の位牌があるのみだった。そしてそれを住職の前に突き出した。六十は当に過ぎたと思われる住職私に深々と頭を下げ「石井さんこらえてください、私の浅はかな考えから貴方にご迷惑をかけ、肩身の狭い思いをさせたことはまことに申し訳ありませんでした。じつは私の長男の一人息子を戦死させました。同じ悲しみを持つ戦死者を持つ遺族ですきょうのところはこらえてください」と謝罪の言葉を言うろう住職の目も潤んでいた。私はハッとした怒りにまかせて怒鳴った事が恥ずかしくなった。「そうでしたか方丈さまも遺族の方でしたか、私のほうこそ人前で大きな声を出した事をお詫びいたします」と詫びたのである。
 住職は「石井さん弟さんのお遺骨箱を風呂敷から出して両手で持ってやってください、そして長津田駅で降りたらこの手ぬぐいで首にかけてやってください」といいながら懐から真新しい手ぬぐいを出し渡してくれたのだった。
 こうして長津田駅で降り、遺骨箱を白手ぬぐいで包み首にかけ、徒歩で帰る途中福生寺の住職とも別れ、やや早足に家路へと向かった。住吉神社の前で左折し五百メートルほど歩くと、駐留軍米軍基地のメインゲートがある。その前に差し掛かったとき、正門警備にあたっているアメリカの歩哨兵がわたしにほうを向いて、ぴたりと両足をそろえ、右手でカービン銃を引き付け、遺骨に向って弔意を表す黙礼をしたのである。私ははっとして歩く早さを緩め頭を下げて答礼をした。日本人ですら気づかずに行き過ぎてしまうのに、米兵が目ざとく気づいてねんごろな弔慰を示してくれた事に感慨を持つのであった。
 亡き弟の遺骨と称された箱は四十九日忌が過ぎてから親類や身内のまえで、位牌だけ入っている箱の中に、以前、最前線から送り届けてきた頭髪と爪を納めて、遺書はこちらに残し、菩提寺である念仏宗の松岳院墓地に埋葬したのである。

 勇徳義山敬勇居士位(ゆうとくぎざんけいゆうこじい) 俗名・石井敬敏(いしいゆきとし) 
 昭和二十年八月九日戦死、行年二十四歳。 合掌


追 記

追 記

 ここで父幸夫のノートは終っている。当然続きを書こうとしたのだろう、そのためのノートも用意されてはいたのだが八冊目のノートには手がつけられてはいない。その後の様子は主客が入れ替わる、私という表記は石井照洋つまり石井幸夫の息子という事になる。少しややこしいが母とは幸夫の妻トシであり、祖母とは幸夫の母ツルという事になる。すべての事柄が私(石井照洋)側から見たことになるのでそのつもりでお読みいただきたい。
 この手記のお終いで書いているように、父の計画はそのまま実行され翌年の四十八年春には完成を見た。家族は新しい家での生活を始めた。そんな矢先祖母が寝込んでしまう、建設中の疲れもあったのかもしれないし、安心して緊張が解けたのかもしれない。いずれにせよこれと言うべき原因も無く新しい家の床に着いた。父母や娘に看護され近くの病院から医師の往診を受け、老衰ともいえる体力の衰えによる衰弱死に近い死を迎えたのである。
 八十八年の人生ではじめて住んだ新築の新しい畳や木材の匂いの中で最後の仕上げと言うべき時を息子や娘、孫たちに手篤く見取られて大往生をとげた。

 本乗妙鶴信女(ほんじょうみょうかくしんにょ) 
 昭和四十八年五月七日 俗名・石井ツル         享年八十八歳       合掌。

 谷戸の多い山村であった奈良町も世の中が高度成長と共に変化して行く過程に沿うが如くに変化してゆく、幸夫が売却した田畑周辺は小田急不動産と住宅公団により大規模な開発が行われ奈良北団地と小田急住宅団地に生まれ変わり、道路整備、その他インフラが瞬く間に整備され、周辺都市より多くの人々が移住してきて、人口も増えた。そして、TBS緑山スタジオが出来、緑山という住所が出来た。
 私達の家はこどもの国とスタジオの中間地点になった。父幸夫はこどもの国定年後も嘱託として勤め七十歳(昭和五十七年)まで勤めていた。その間私は結婚、昭和五十三年長男、五十四年には次男が生まれ、幸夫と母トシは長男と次男に「じい、ばあ」と呼ばれて孫たちを可愛がっていた。特に父母は石井家初の養子でワはない嫡子に大変喜んだ。そして、次男が生まれた時に私達が住んでいた裏の離れと父母たちが住んでいた母屋との交代を提案され、私達はいいといったのだが「遠慮するな」との一言で私達が母屋に、父母は離れにという暮らしになった。
 母トシは長い闘病生活で痛めた身体は病名はつかないが気管支喘息気味なものになり、リュウマチは両手首を痛めるようになっていたが、孫を相手にすることによって気も紛れていたように平穏な日が続くかに見えたが、それもそんなに長くは無かった。少しずつ体力が失われていった。リュウマチがだんだんひどくなり、喘息のような胸苦しさも増していったようだった、いわゆる膠原病による症状に苦しむようなっていた。近所の医師の往診は受けていたが、それでも医師のすすめる大きな病院での検査は受けようとしなかった。長い病院暮らしの中でもうあのような身になるということは今生との別れだという思いが強かったのだろう。我を張らない人にしては珍しく言うことを聞かなかった。しかし、孫の相手も出来ないほどになり、一晩中咳が出て苦しむようになった。父も付きっ切りで世話をしていたが「病院へ行こう」との言葉に、母は覚悟を決めたように頷きそのまま相模原国立病院へ入院した。
 家族、親類縁者はもう駄目かという思いで病院に見舞ったが、その日は苦痛も訴えず以外に元気なところを見せた。そのうえご機嫌も良く冗談めいた事さえ言った「これならまた退院できそうだよ」ということで夜になると皆さんは安心して帰路についたのだった。念のため私だけ病院に残る事にした。
夜に入ると昼間の疲れが出始めたのか、少し具合が良くないような様子だった。何か飲むかと聞いたところスイカが食べたいと言うので看護婦に聞いたら、いいでしょうと言うので少し食べさせた。「冷たくて美味しいよ」といいながら少し食べた、そのまま少しの間は寝ていたようだったが「気持が悪くなった」と言い出し「ああー苦しい気持が悪い」というので私はあわててナース室まで告げに言った。「わかりましたすぐ行きます」という返事を聞きながら母のベッドに戻った時、「ああー苦しい」と両手を虚空に伸ばし何かを掴むようなしぐさをしてそのまま息絶えた。ほんの五分くらいの間の出来事だった。すぐに医師と看護婦が飛ぶように駆けつけてくれて、人工呼吸などを懸命にしてくれたがそのまま帰らぬ人となった。
 定徳院妙寿信女(じょうとくいんみょうじゅしんにょ)
 昭和五十八年七月九日 俗名・石井トシ       享年六十五歳             合掌。

 妻を亡くした父幸夫は、離れの方で一人気ままにすごすというのであったが、四十九日をすぎるあたりから寂しそうになった。そのため夕食は皆で食べようと提案し父も母屋にきて食事を一緒にするようになった。私は家でデザインの仕事をしていたので全員で食事時間が持てたのである。その際父は私の妻や孫たちにどのようにして生きてきたかなど聞かせるようになっていた。
 その話の豊富さと苦労体験の貴重なものを感じた妻美千代が、「お父さん今話しているような事を書き残したらどうですか、そうすれば私達も後でゆっくり読ませてもらえるから」という提案をした。そのとき元気をなくしていた父がやってみるかいって始められたのがこの記録である。目標が出来た父は精力的に書き始め、元気を取り戻した。昭和五十八年〜平成一年まで延べ八年間を使いコツコツと思い出しながら記したのである。元来が勉学好きな人だったので性に合っていたともいえるのだろうが記憶が克明である。                    
 昭和から平成になるまえは、バブルの頃で、横浜市の計画道路の実施が決まり、宅地の一部と、協栄産業改め大正産業に貸していた土地が収用になるため市との交渉や何かで父も忙しくなってきた。そして母屋部分も収用になるため移転をし新築家屋で同居しようという事もあり、その準備や交渉でまた忙しさが加わった。そんなことで手記もぷつんとしたような終わり方になったのだろう、だが書くべきことは全て書いていると思う。後は私の追記のために書く事を残しておいてくれたのではないかとさえ思えるのだ。
 道路の交渉も無事に終わり平成二年今私達が住んでいるところ、以前の家から三百メートルほど緑山スタジオに近くなった谷戸の一角に移転することにした。そして新しいところでの上棟式の祝いの席では、とても上機嫌で親戚や隣組の人の世話をしていた。父の部屋は彼の望みどうり総ヒノキの柱で完成し、同居生活が始まった。
 その後、老人会にも参加しそのお仲間と家で茶話会をしたり、散歩をしたり、家の回りの草むしりをしたり、悠々自適生活を楽しんでいるようだった。一緒の食卓では四人になった孫たちに昔話をするのが楽しそうだった。テープレコーダーのように同じ話しをすることが多かったが。八十五歳をすぎた頃からだろうか最近出来た地域ケアプラザのデイケアを利用するようになり、迎えに寄ってくれるマイクロバスに乗り込む時は楽しげに見えた。ケアプラザでは明るく社交的で、冗談も飛ばすので皆さんに好かれたようだった。
 そんな生活が数年続いていたが八十八歳のときだったか、年の暮れ風邪から肺炎を起こし、重症だと医師から言われ緑協和病院に入院し油断ができない状態が続いたが徐々に回復し三ヶ月後には医師や看護士が驚くほどの回復をし退院したのである。
 それからの父はだいぶ体力も無くなり、週二回のデイケアに行く事以外は散歩もしなくなり、ベッドからテレビを見たりラジオを聴く程度の日常になった。食事も部屋に運んでくれというようになり、だんだん横になっていることが多くなっていった。
 九十歳の初秋、ケアプラザの方から足がむくみだしているとのことでそのまま近くの緑協和病院に再び入院した。前回の入院で相当抗生物質を与えられていたので体全体の抵抗力もなくなっていたし高齢でもあった、腎臓が機能低下で今度は回復は難しいと、主治医に言われてはいたが本人には伏せていた。病室のベッドでの父はうすうす感じるものがあったのかも知れなかった「俺はもう充分やってきたし思い残す事もない、ありがとう」と私や妻、父の妹などに言っていた。
 二ヵ月ほど経った頃から容態が思わしくなくなり重態になった。一週間ほど苦しい状態が続いた後意識が無くなったが、心臓はまだ停止していなかった。
 十二月十九日朝、医師から最後の面会を言い渡され、私が先に行きついたときは息はしていなかったが心臓のモニターはまだ心停止はしていなかった。一足遅く来た妻美千代が「お父さん長いあいだご苦労様でした、もう楽になってください」と声をかけた瞬間、心臓のモニターが静かに止まった。
「ご臨終です」と医師が言った。

 平成十五年十二月十九日
 石井幸夫(戒命はなし)      享年九十歳  合掌。

 こうして、父の死後、六年目の初春、やっと気になっていた作業を終えることが出来た。石井家の嫡子とはいえ自分の子ではない私を大切に育ててくれた人に対して今更ながら、人間を育てるのは人間以外ないのだなという感想をもつ。
 父幸夫と共有する時間を五十年以上持ったことになる。私が養子になってからしばらくは「父ちゃん、母ちゃん」と呼ばなかった数年間があったということを祖母から聞いたことがある。
 いま、私は新しい家庭の主人公として生きている。その底流にはこの記録に残されたような記憶があるということを、次の世代である息子たちはどのように捕らえるのか興味のあるところだが、直接聞くことはやめておこうと思っている。

                                                  (完)

こどもの国誕生・母の病気・こどもの国の開園・新築計画

こどもの国誕生

 妻が二年の入院生活から帰り自宅療養にはいって間もなく、昭和三十六年三月中頃、勤務先の田奈火薬廠が近く接収解除されて日本政府に返還されるらしいという噂が奈良町の人々のあいだで話題となり始めていた。噂は噂を呼び、基地が返還された後は国有地だから、ご結婚された皇太子殿下(現平成天皇陛下)のご成婚記念事業として将来日本を担う少年少女育成のための楽園になるとか、イヤイヤそれは埼玉県の朝霞基地後にほぼ決まったとか、ここは返還されずに引き続き米軍と日本の自衛隊の共有実弾射撃場になるとか、まことしやかな噂が流れていた。 
 地元である奈良町民の総意としては、基地の返還がなにより先決であるから、地方行政機関(神奈川県、横浜市)に対し返還運動をということで、地元代表団を結成、返還運動をした。二十数回の陳情に及んだがなんの反応も得られなかった。止むを得ず神奈川県知事の内山岩太郎氏に直接、東京の在日駐留米軍総司令部に出向き返還交渉をしていただいたのだが、そのつど米司令官はノーコメントの一点張りだった。万策尽きた地元代表団は、土志田晋吉氏にお願いして藤山愛一郎に依頼することを最後の手段としたのである。
 土志田晋吉氏は若い頃から長年にわたり藤山愛一郎氏の私設秘書を務めた人であり、当時もその家族の方々とも親交を続けておられる人であった。藤山愛一郎氏は当時知らぬ者はないほどの大物政治家であり将来の総理候補の一人でもあったほどの人物である。土志田晋吉氏は地元代表団の願いを快く引き受けてくれて、代表団ともども上京、藤山氏に交渉役をお願いし快諾をえたのである。米駐留軍司令部は藤山氏の要請と提言を即座に受け入れ、日本政府に対して基地の返還、解除、明け渡しの諸条項を確約してくれた。
 この朗報に地元の町民は大変な喜びようであった。そして間もなく、開放後の国有地を(面積約三十万坪)整備改造して、皇太子殿下ご成婚記念事業として『国立こどもの国』の設立が決定した。
 一方、私達たち駐留軍に勤める者は、またまた人員整理による失業かと思ったが、基地内で働く労務者は他の基地へ配置転換し引き続き雇用する、警備員、消防員で四十五歳以上の者は配置転換、再就職は当分のあいだ不可能であろうから、本人が承諾、希望するなら政府側で引き続き雇用するので各々で申し出るようにとの通達であった。このため、再就職を申し込んだ十名のものが雇用された。私、井組政一、井組金作、の地元同僚は無事残ったのである。
 こうして皇太子と美智子妃のご成婚を祝しての国民的事業『国立こどもの国』の建設が急ピッチで開始されたのは、米軍基地の残務整理が完了した昭和三十七年三月頃からであると記憶している。同じ年の四月三十日のことだ、急いで建造された管理事務所の管理責任者の厚生省から転勤してきた緒方英雄氏から突然の通達で、「ただ今、宮内庁から厚生省の方へ電話があり、本日皇太子殿下と妃殿下のお二方がお忍びでこどもの国の現状をご視察にお出でになるので、諸君は服装を整えてお迎えするように」との示達だった。といわれても私達の様な下級職員などには整えるような制服とて無い時期であったので、大急ぎ各人は通勤用の服装に着替えたのだが、皆バラバラの格好だが帽子だけは厚生省の守衛用のものを支給されていたから揃っていた。
 かくして一同の者たちは緊張して待つうちに午前十時ごろ、両殿下がご到着された。ご一行は三〜四台の自動車でお出ましになり、中央の黒い高級車から先にお出ましになった皇太子が妃殿下のお出ましになるのを微笑を浮かべてお待ちになっていたのがとても印象的で、車から離れて私達の二〜三メートルほどのところで帽子を取り深々とお辞儀をして両殿下をお迎えしたのである。お美しい妃殿下は私達に至るまで、一人一人にお優しい笑顔で会釈して下されたのである。そして、両殿下はジープにお乗りになりご視察のため用地内を一巡され管理事務所でしばしの休憩をされ、お帰りの際にも妃殿下は「きょうは本当にご苦労様でした」とお声をかけて帰りの車にお乗りになった、私にとって人生最良の日とでも言える一日になった。
 米軍基地も返還になり、こどもの国として生まれ変わる工事が進みだした昭和三十六年五月ごろ、奈良町の主だった顔ぶれからの連絡で、本日午後七時より奈良小学校において、助太郎谷戸全域を譲り渡してくれるようにとの話が、小田急電鉄事業部から申し込まれたので、助太郎谷戸の関係地主はぜひとも集合してくださいとの初めて耳にする言葉であった。
 私も小さいながら地主の一人で、畑三百三十坪、田八十坪、雑種地九十坪の合計六百坪を該当地に所有している戦後の開放地主であった。小学校で行われた説明会において、小田急側から三名、奈良町の顔役四名、地主三十五名ほどが出席した。話の要点は助太郎谷戸の土地十万坪を小田急電鉄不動産部に売却するかどうかというもので、小田急の説明によると、奈良町は国立こどもの国建設用地でもあり、小田急線の玉川学園駅にも比較的近く住宅地としては魅力的なところであります。もし皆様の土地をわたしどもにお譲りいただけるならば坪当たり四千円で買い取らせていただきます。ですがそれ以上の価格をお望みならばこの話は無かったものとして頂きたい。というものであった、地主側からの付帯条件などを認めないかなり強引な者であった。それほどの自信が小田急側にあったのだろう。明治維新以来土地の買収などということがなかった地域において降って湧いたような話に、一〜二の地主を除いて、買収に応じる地主がほとんどだった。その後一度の会合をしたのみで交渉は成立し契約完了となったのである。その後小田急電鉄と住宅公団により大規模な造成が行われ、公団奈良北団地とその周辺の小田急住宅団地になり現代に至っている。そして、小田急に売却した代金と米軍田奈火薬廠からの退職金、手元の貯金を合計すると三百万年近くの蓄えが出来たのである。
 また、米軍基地からこどもの国に移行するに際しても職員としてそのまま採用されたので、職の不安がなくなったことは有りがたい事であった。

     母の病気

 昭和三十九年夏、私は家の前の田の草取りをしたあと昼飯に家に戻ると手足を洗って家の中に入ると、妻はまだ食事の仕度もしないでいる、年老いた母を布団に寝かせて心配そうな顔つきで、母の下腹をさすっているので「どうした?」と声をかけると「ばあちゃんは下っ腹が痛むというんですよ」と妻が言う。先ホトの朝飯の時は家族四人で朝飯を済ませたばかりであった、母は今年八十歳になっているがすこぶる健康で、昭和二十三年に父仁太郎が死亡した時以来病気らしい病気もせず、妻が発病した時も、気丈に家庭を支えてくれていたのである。私は急いで野良着のまま自転車で中恩田の井出医院に急ぎ、母の様子をつぶさに告げ来診を頼んだ。 
 その結果診断は急性盲腸炎ということだった。井出医師は化膿止めの注射と腹痛を留める粉薬を置いて帰った。その夜は痛みも薄らぎ、夜中には静かに眠りについたと添い寝した妻から聞いて安心した。だが翌朝になると再び痛み出し、昨日よりも痛みが増したというので、井出さんに再び往診を依頼した。医師は再び痛み止めの注射をしてもらい痛むところを氷で冷やし静かに寝ていれば二〜三日で治まるだろうと医師は言って帰った。しかし、四日、五日と経過しても腹痛は治まらず自力で立ち上がることすら出来なくなった、また来診してくれた井出医師は「八十歳の高齢なので手術しないで直そうと思いましたが、化膿し始めたようなので手術しないと無理でしょうという判断になり、井出医師の往診用の車で長津田厚生病院へ救急入院して即日、手術をしてもらうようになったが、交通事故で重症の患者が運び込まれていたのでその手術の後でやりましょうということになった。
 母ツルが入院した事を知らせたので、私の姉妹たちはつぎつぎと病院に駆けつけてきたが、「手術中関係者以外入室禁止」と張り紙のある扉の前で待つしかなかった。
そんな時がどのくらい経ったのだろうか、手術室の扉が開いて「患者の家の責任者の方がおられたらお一人だけお入りくださいとのことなので、私は中に入った「貴方が石井家のご主人ですかお母さんの患部は、盲腸炎ではありません盲腸には何の異常もありません誤診でしょう、ごらん下さい病原は腫れ物です、それも最近出来たものではなく相当以前からの大腸肉腫です。今となっては部分的な手術では無理なので、大腸の切断をしなければなりません、このとうり患部は十センチほど化膿しています」と切り開かれた下腹部から引き出された大腸に細長く腫れた紫色の患部を見せられた。「手術をするかしないかは貴方の決断によります」と言われた、私は少し考えてから、手術してもしなくても助からないなら、一か八か手術をしてもらおうと決断し「先生切ってください」と言い切った。そして渡された書類に署名捺印して、廊下で待っている妻や姉妹に告げた。
 一時間、二時間過ぎても終らない、長い夏の日差しが西に傾きかけた頃、5時三十分ごろようやく三時間に及ぶ手術が終わり手術室の扉が開き、寝台に乗せられてやつれた白髪頭の母が全身白い布で包まれて姿を現した。重症患者専用の固執の寝台に移された母は全身麻酔のためか昏々と眠り続けている。手術室に呼ばれた私達に見せられた長さ二十センチ位に切断された大腸は化膿して変色した部分だった。「手術は成功ですが、患者は老体の上、想像以上に衰弱しており二〜三日の経過を見なければ生命の保証はいたしかねます」との事だった。その晩から私達や姉妹たちが交代で付き添い、回復を祈ったのである。
執刀してくれた医師は東京の東大付属病院から派遣された医師で外科専門医である黒田医師という方だった。その日は日曜日だったので救急病院以外では入院手術は出来なかったろうたまたま交通事故の重症患者のために緊急派遣されていた腕の良い先生だという黒田医師に執刀してもらえたことが幸したのかもしれない。 
三日目の峠を過ぎてからは徐々に回復に向い、術後の経過も順調に経過し、四週間余後には退院した。そして病理検査をしたが悪性のものではなかった。
 やがて、私達家族、親戚、近隣の人たちが驚くほどの回復をし健康を取り戻した。
 
     こどもの国の開園

 母が手術をした翌年、昭和四十年五月五日、こどもの日の天候は見事な五月晴れの中央広場で待ちに待ったこどもの国開園式が盛大に開催された。広場の中央に新設された借りの建物内が皇太子殿下妃殿下一行をお迎えする場所であった。私達一般職員は式典場の幕の開閉及び式場の整備三名、ほかの五名は神奈川県警から特派された警官と共に不測の事態に備えての警戒であった。私は式場の整備、横断幕の開閉係であったのでひき開けられた両側の幕のあいだから皇太子殿下、妃殿下のお姿とお顔を拝見する事が出来た。
なお当日は、佐藤栄作首相、神田厚生大臣、愛知文部大臣、徳安郵政大臣、の各氏が、東東京都知事、美土路朝日新聞社長ほか多数の方々が参列されたのである。また、式次第進行役に黒柳徹子坂本九があたった。
開園日の入場者数は約十七万人(神奈川県警調べ)となり大変な人が来園した、まだまだ緑深かった当時、いつもは静かな奈良町に突然降って湧いたように人が溢れた。まだこどもの国線が開通していない時で、横浜線長津田から歩く人の長蛇の列が、米軍基地の時まで使われていた引込み線で、その時は使われていない線路伝いにノロノロ歩きでつながった。
 多摩田園都市線の開通もまだであり、国電長津田からバスで来るか車で来るかしかなかった。国道二四六号線を左折あるいは右折して約三.五キロの砂利道を走るとこどもの国に着くのだが、この日は三〇〇〇台ちかく駐車できる駐車場が満杯になり、道路に駐車待ちの車が溢れた、そのため車を乗り捨てて歩く人まで現れた、そのためバスも動けない、こどもの国から国道二四六までじゅうたいしたという騒ぎになって収拾がつかないという大変な騒ぎになった。電車で来た人たちはそのため開通前のこどもの国線の生い茂った雑草を踏み分けて難渋しながら歩いて来る人たちがこちらも溢れたのである。このような混乱の中で開園を迎えたこどもの国はこのような施設がなかった時代に現れた新しい形の娯楽施設としても全国のモデルとなっていった。
米軍基地変換後からの三年間は子供の国建設中だったのでその間の維持管理は横浜市に委託していたので、その間私達は横浜市の職員として勤務した。その間の園長は横浜の野毛山動物園長、染谷建朗氏が兼任されていた。四十年五月五日の開園は駆り開園であった。正しくは昭和四十一年六月、特殊法人こどもの国協会法が成立し十一月正式に特殊法人こどもの国協会が発足し現在に至っている。 
 そして私達は市の臨時職員から腫れて同協会正規職員として再採用されたのみか、同協会雇用規定である六十歳定年を二年延長の特典を与えられたのである、それのみか給料も大学卒業者の五年勤続者と同じになった。私は五十三歳になっていた、そして正式な管理者は厚生省家庭児童局になり私達は準国家公務員の待遇になったのである。                          
 初代園長は朝日新聞社業務担当重役、矢島八州夫氏が就任した。奈良町出身の職員は井組政一、井組金作、私の三人だけだった。開園翌年には東急電鉄こどもの国線が開通、常陸宮殿下、妃殿下をお迎えしてこどもの国線開通式が行われた。
 昭和四十三年六月には、学習院初等科二年におなりの浩宮様の遠足の付き添いで、美智子妃殿下が礼宮様をお連れになり、学友とご一緒にお越しになられた。私達は警備をかねた改札係であったので、二日前から妃殿下御一行がこられる事は管理事務所から聞いていたので、妻や母にそのことを伝えて正面広場前で、妃殿下ご一行がお通りになるのをお待ちするように伝えておいた。   
 当日、ご一行は十時ごろお付になり駐車場に止めたバスよりお越しになられた。私は皆様に園内案内図を手渡しする係りであった。付き添いの父母の中には私の差し出す案内図などには見向きもしない人もおられたが、美智子妃殿下は微笑みながらご自分の方から手を差し伸べられ受け取られた。そのようにして一日無事に仕事が終わり満足して帰宅してみると、母と妻は次のようなことを知らせてくれた。二人は一般入園者と共に入口正面の陸橋下で待っていたのだがお見えになると、母と妻はは深々と頭を下げると、その姿をご覧になられた美智子様は行列を二.三歩離れられ、母の前にこられ優しい笑みを浮かべて「おばあちゃんお元気で何よりですね、お体を大切にしてくださいね」とお言葉をかけて下されたそうであった。母は涙を浮かべながら私に話して聞かせた。天皇は神様であるという時代に成長した母にとっては今生の置き土産と言うところだろう。
 昭和三十三年から十三年間、闘病、治療生活を続けていた妻も完治したという相模原国立病院の主治医中村医師の判断も示され、外来治療にも終止符が打たれて、やっと結核との縁も切れたのである。何よりも母は涙を流して喜んでくれた。

     新築計画

 昭和四十四年、私は勤めも安定し生活にゆとりらしいものもでき、照洋も二十四歳になるので食事以外のことは自分でするようにしてもらうことにし、五十七歳になったので仕事をしながら田畑をすることはもう無理であると決断した。そこで井上博良さんからの借地他も返したあと、自宅前の田んぼ百五十坪を埋め立ててもらい畑にし、前々からの畑と続けた三百坪の一枚の畑にし、翌年、共栄産業株式会社(現大正産業)に貸したのである。こうして農作業は終止符を打つことにしたのであった。
 やっとわたし自身の念願に向けて計画を進める時期に来たと思い始めたのである。それは、明治時代に初代石井の祖母トクが建てた家を貧困のため建てかえることも出来ずあばら家同様になってしまった家を、直しなおし使っていたがこのあたりでこの母屋を取り壊し、新築したいと言う思いである。それとなく妻や母に言ってみたけれど、「父ちゃんは家へ入ってくれてから、他所の人のように旅行にも行かず、うまいものを食うわけでもなく、金を貯めてつぶれかかったこの家をアッチコッチ直し、裏の物置まで人が住める用にまで作り変え、水道まで引いて、今じゃあ風呂も石油で沸かすほどになったし、それに他所より先に冷蔵庫や洗濯機も買ってくれた、この母屋も草葺屋根をトタン屋根にしてくれた、それに土台や柱まで新しい者にしてくれた、このままでもあと十五年や二十年くらい使えるよ。照坊もデザインの学校まで出してやったんだから、あれももう自分の事はやっていけるいい若い衆になったんだ」「もう何も心配はない父ちゃんだってもういい歳だ、勤めだって後何年もあるわけじゃあないんだし、トシだって丈夫な身体じゃないんだから、余計な事を言うようだが、新しい家を建てるほど金が貯まっているんなら、年寄りになったときの用甲斐(ようがい・生活費)に積んでおくほうがいいと思うがね」というのであったが、私は母の心根はよく解っていたし、ありがたいと思っていたが心中に期した方針は変えなかった。というのは過去二十四年間、古い家屋はアッチを直し、こっちをいじり、している間に新しい家が建つほど費用もかかった。この先もまたいじり続けなければならないだろうと判断したのだ。いっそのこと建て替えたほうがサッパリするという想いがあったので、新築計画を着々と実行に移していった。上のうちの大工、鳥海さんにお願いし図面から検討が始まった。母や妻には黙っていたつもりだったが、そこは近所の事筒抜けになっていた。
 母は「ヤッパリ新しい家を建てるのか、わしはこの歳になるまで、新しい家屋に住めるのは初めてだよ、ありがたいことだが、お前も大変だろう」と呟くような声で言ったのである、昭和四十七年九月末のことだった。
 母八十七歳、妻トシ数え年五十四歳の年である。

あとがき

あ と が き

この手記は私の養父、故石井幸夫が妻トシを亡くして一時元気をなくし手持ち無沙汰にしていることを心配した私の妻、美千代が提案して、乗り気を出したのがきっかけではじめられたものである。
 共にする食卓での昔話を幾度となく聞いていたこともあったのだろう「お父さん、いろいろな経験をしてきたのだから、作文にしたらいいんじゃない」の一言が、この克明で鮮明にともいえる記憶の底を汲み上げるようにして、エピソードが湧出したのである。
 ノートの表紙には[私の人生つれづれ物語]とあり、市販の大学ノートに筆ペンで手描きされたこの手記は、昭和五十八年(幸夫六十八歳)から書き始められ、平成一年(七十六歳)の七冊で終了まで途中休みをしながら八年間をかけて書かれている。
 きっちりと書かれた生原稿は、難しい旧漢字で丁寧に書かれており、すべての漢字にルビが打ってありほとんどが正確に使われている。高等教育を受けていない人がこれだけ見事に間違いのない漢字で埋め尽くされた文章と、確かな記憶を持ち続けていたことは驚きに値する。しかもかなり高齢になってからの記述でもある。そのため時代考証や年号の記述を確認する作業はまことに簡単に済み、あらためて調べなおしをしなくても安心できたのはありがたかった。 素人でもあるし、年齢的なものもあり繰り返しが多かったり、前後のつながらない所などがあったがこれらのことを整理するだけでこの物語は進んだ、それと昔のことでもあり、とても現代の都市化した町からは想像しがたい田舎の山深い貧村の方言のような、現在の人には理解できない風習とか言葉づかいなどは、理解の範囲に訂正したりしたが大筋はほとんどいじってはいない。
 運も強い人だったような気もするが早逝した兄の子の私を育てながら病気がちの妻を抱えて驚異的な粘り腰で、戦中、戦後の混乱期に家庭を支えて、私の祖父仁太郎そして祖母ツルを篤く見取り、長い闘病生活を過ごした妻トシを守り、見送り、その後に書き始められたこの手記を書き終え、父石井幸夫は平成十五年十二月十九日朝、九十歳で安穏として永眠した。
                                              (感謝・合掌)