遠い日の思い出
遠い日(昭和25〜35年頃)の思い出によせて…。少年時代、まだ敗戦の影響が色濃く残りみんな貧しかった。テレビもなく電話も普及していない横浜の田舎町ではそれでも、きれいな空気、澄み切った空、明るい太陽、明るい笑顔と自由な雰囲気、逞しい遊びごごろ、広々とした野原がありました。まだ受験などと言う余裕もなく、塾はおろか幼稚園や保育園などというものもありませんでした。そんな時代の人々がテーマですそれぞれの人となりを童話風に簡単に紹介してみようと思います。
●とみおくん
とても財産家の子だというのですが、財産家ってなんでしょう。
一年生のとき、とてもいい服を着て革靴を履いていました。
そんな子は、とみをくん一人だけでした。
ワガママなところが嫌いでけんかをして泣かせてしまいました。
でもその後から仲良しになりました。
●上のうちのおじさん
私の上にある家のおじさんです。とても無口です。
腕のいい大工職人だそうです。私の家もおじさんが作りました。
私の住んでる地区の家は、
ほとんどこのおじさんが作ったのだそうです。
家だけでなく、建具や家具なども作れるほどの凄腕だそうでした。
●上の家のお兄さん
上の家の大工職人の長男の人です。
九人きょうだいの二番目の人です。大工みならいです。
お父さんに弟子入りして修行していました。
しゅっしゅっと鉋屑を出しながら木を削ったり、のみを研いだり、
のこぎりで木を切ったり、見ていても飽きませんでした。
●将棋の強いおじいさん
この人はとても将棋が強い人でした。
近所の長屋に住んでいて、おばあさんと二人暮しです。
菓子職人でしたが中国からの引揚者だということです。
東京に息子さんの家ができたので
木炭自動車に荷物を積んで引っ越していきました。
●ひろこちゃん
とても元気で明るい人でした。
お父さんは戦争で死んだので、お母さんとお姉さんの三人暮らしでした。
お母さんは隣町で働いていましたが生活が大変だったようです。
五年生のとき、隣町へ転校していきました。
いまは家も建てて子どもも二人いてシッカリしたお母さんをしています。
●K先生
中学二、三年のときの担任です。
ちょうどふてくされていた頃で迷惑ばかりかけていました。
ホームルームで涙ながらに諭された事があります。
成人式の帰り挨拶に寄ったら大変喜んでくれました。
●みちよさん
私の奥さんです。
絵を描いているわたしを、いろいろな仕事をしながら、
四人の子供を育て、私の少ない収入をやりくりして、
それでも明るく楽しい家庭をリードしてくれています。
決して愚痴をいわない人です。
感謝してます。
遠い日の思い出
●わたし
私は、小三の三学期のとき左目の瞳にケガをしました。
遊んでいた時の事故です、失明するかもしれないと診断され、
翌日、相模原国立病院に入院して、
四十五日間病院にいて、二回の手術をしました。
が、左目の視力は0.01です、二重、三重にものがぼやけます。
瞳というレンズが壊れたのですからしかたありません。
入院中いろいろな人を知りました。
身体障害者の人だけがいる病棟にはショックを受けました。
今は差別語かな?せむしと呼ばれる脊椎カリエスの人たちや
手や足のない人、普段見かけることのない重い障害を持った
大人や子供の人たちが入院している病棟でした。
傷痍軍人という戦争で怪我をした人たちもたくさんいました。
義足、義手、義眼、松葉杖、車椅子…このとき知りました。
結核病棟には青白い顔色をした頭の良さそうな人たちが、
本読み機のようなもので漢字だらけの本を読んでいましたし、
眼科病棟には目から上を包帯でぐるぐる巻きにした人とか、
白い杖をついて歩く人などホントにいろいろな人がいました。
●K先生
五年生のときの担任です。
絵を描くのがとても好きな人でした
図工の時間には神社や山によくスケッチに行きました。
放課後は絵の好きな生徒を連れてあちこちに描きに行きました。
私は絵は好きなほうでしたがk先生のオカゲでとても好きになり、
横浜市のコンクールで銀賞になり、朝礼で表彰されました。
●名前は忘れました
中学に行く途中に、朝鮮人の人たちが住んでいる長屋がありました。
そのころは南も北も一緒に朝鮮人と呼んでいました。
そこの子どもたちのボスでした。乱暴ものだという事でした。
私はなるべく顔を見ないようにしていました。
バス通学の同じ時間のバスになる事がよくあったからです。
●上のうちのお姉さん
この人は私の家の上のうちの二番目のお姉さんでした。
とてもおとなしい人で、小さな声で静かに話すので
聞き耳を立てていないと聞こえないほどでした。
好きな人ができて、自転車でデートしているのを見たことがありました。
夏の花火の日、山の上の畑でしゃがみこんで泣いているのを見ました。
●まんがくん
本当の名前はただしくんです。
マンガの主人公のようにパッチリとした目なので。
とても明るくて元気な人でした。
そして皆を励ましたり、笑わせるのが得意でした。
今何をしてるかなー。
●クレオパトラさん
本当の名前はゆきえさんです。
クレオパトラの様な髪型なので
先生がつけたあだなです。みんなにうけました。
はっきりと発言する人でしかも正論です。
男子も一目おいている存在でした。
遠い日の思い出
●まきちゃん
障害者病棟で入院をしている女の子です小二でした。
交通事故で右足を膝下から失いました。
松葉づえを使う訓練をしていました。
ぼくは一人っ子なので妹のように可愛いと思いました。
この病棟には小学生もケッコウいましたが、
話をしたのはこの子だけです。
ヒマをもてあました時などよく行きました。
その辺はまだまだおおらかな時代でした。
ぼくより早く退院していきました。
●Kさん
眼科の隣のベッドのお兄さんでした。
全盲になってしまった人で何でそうなったのかは、
聞いたことがありませんが優しい人で明るい人でした。
入院も長く病院での暮らし方など話してくれました。
白い杖をつきながら器用に歩きます、
ラジオの「君の名は」というのが大人気の時で
その時間になるとみんなラジオのあるところに行ってしまいます。
kさんもみんなと一緒にラジオを楽しみにしていました。
K牛乳という会社の社長の長男だといっていました。
●Sさん
看護婦さん、今はナースというのでしょうか?
私はなついてこの人の後をついて歩いていました。
いろいろな病棟もこの人の後についていったからです。
長いあいだの入院でしたのでみんなと仲良くなりました。
Sさんはとても優しくしてくれました。
ぼくが、後をくっついていっても何も言いませんでした。
仲のよい先生がいることを知りました。
ある時、一人でテニスコートのそばを歩いていたら、
Sさんとその先生がとても楽しそうにテニスをしていました。
何か声をかけることがいけないような雰囲気がありました。
ぼくはそっと見つからないように病室に帰りました。
退院する時、離れたくないという寂しい思いをしました。
●W先生
私の目の手術をしてくれた医師です。
優れた評判の先生だそうでした。
部分麻酔での手術だったのでジャリジャリという
目を切る音が聞こえます、とても不安で、気味が悪かった。
手術の後は三時間ごとにペニシリンをお尻に打ちます。
ペニシリンはとても痛い注射です、それの太いのを打ちます。
お尻はコチコチになり打つ場所を変えながら打たれます。
そして両目ともぐるぐる巻きのまま二週間の安静。
片目を巻いて一週間の安静がありました。
おしっこやウンチを寝たままするのがとても嫌でした。
二度目の手術もW先生がやりました。
手術の後の長い安静が辛かった思い出です。
追悼記
●仁太郎さん
おじいさんです私が三歳の時なくなりましたので記憶にありません。
日露戦争で中国に行きました絶望したことがあったので、
戦死するつもりだったそうです。
かの有名な二百三高地の白襷隊(しろだすきたい)として
ロシア兵との白兵戦でも死なずに生き残りとして帰国しました。
肝っ玉の座った人だったのだろうと思います。
この戦場で生き残った人は奇跡といわれたうちの一人です。
明治天皇より金鵄勲章が下付されました、
恩給や年金などもたくさん支給されたといいます。
地獄を通り抜けてきたせいか無欲になり、
生まれつきの人の好さも加わりおだてられ、
英雄扱いにもなり人の保証人になりだまされ借金を背負わされたので
とても貧乏になりました。
そのため八人の子供たちは大変苦労をさせられたと、
おばさんたちに散々聞かされました。
喘息持ちでしたので晩年は臥せていることが多かったといいます。
鏡を見て「死相が出ているからきょう俺は死ぬ」と言って、
本当にその日に死んでしまったそうです。六十五歳でした。
感謝。合掌。
●おツルさん
私を育ててくれた祖母で、明治十八年生まれです。
新潟の新発田のある藩主の家臣の次男の娘でした。
父親は廃藩置県のとき退職金のようなものを元手に、
横浜に移住し貿易の仕事を始めましたがそれなりに成功したそうです。
おツルさんの母が早世したので、養子に出され貧しい仁太郎さんに嫁ぎました。
「世が世であればお姫様だよね」とおばさんたちは冗談を言っておりました。
私が生まれたときからずっと育ててくれた人です。
白髪がとっても美しい人でした。
基本的な教育は受けていたので新聞が読めました。
いつも微笑んでいたような記憶しかありません。
いくらお礼を言っても足りないくらい可愛がってもらいました。
八十歳で大腸を三十センチも切りましたがのりこえました。
八十八歳で老衰で亡くなりました。
感謝。合掌。
●ホントのお父さん
この写真は満州(中国)の病院でのものです。
日本陸軍の兵士で満州にいたとき結核になりました。
優秀な人で、小学校も満足にいってないのに軍曹にまでなったのだそうです。
1942年に帰国し、結婚しました。1944年に私が生まれました。
1945年2月に結核が悪化し死にました。私は六ヶ月でした。
合掌。
●満州での父の恋人。
まだ満州にいたときの父の恋人でした。
女優さんだったそうです。どうりでとても綺麗な人です。
父と結婚して一緒に日本に行くといいましたが戦争に負けることを予想した父は、
病気でもあり混乱する日本に暮らす事の困難を知っていたので、
泣く泣く別れたのだそうです。この話は叔母が泣きながら話してくれました。
合掌。
●産みの母親
貧しい農家の長男に嫁ぎました、生家はソコソコ裕福だったようです。
父が貧しいながらとても優秀な人だったようで、
母の父親に見込まれたのだそうです。
三十歳ソコソコで私を抱え、未亡人になったのを見かねて、
仁太郎とおツルささんが再婚を進めたようで私が四歳のとき再婚。
私は祖父、祖母がとりあえず育てる事にしたのです。
やがて幸夫さん夫婦が実家に戻るかたちで私の両親となりました。
再婚した母は一男一女をもうけ育てました。
性格のよい義理の弟妹は仲良く家庭を支えましたが、
晩年の母は脳梗塞に倒れ横たわ ること十年。
義弟夫婦に手厚く看護を受け病院で亡くなりました。
合掌。
●幻の叔父さん
なまえを敬敏さんといいます、私の産みの父の三人兄弟の一番下の弟でした。
小学校の成績もとても優秀でしたので上級学校に行けるように
学費も出すからと担任の先生がおじいさんを説得したのですが
実現しませんでした。
とても正義感の強い人で、できのいい人だったようです。
二十一歳ソコソコで兵隊にとられフィリピンのレイテ島で
全員玉砕のメンバーの一人でした。
最期は戦死とは言うが餓死だったようなのです。
日本軍に見捨てられて食料の補給を断たれたようです。
そんな話を事あるごとに、父や、祖母、叔母さんたちから聞かされていました。
みんな話しながら涙を流していました。
合掌。
●幸夫さん
私の産みの親の弟で私の育ての父です、私が四歳のとき養父になってくれました。
子どものいない夫婦だったとはいえ、敗戦時の貧しく、
混乱した時に私を人並みに、あるいはそれ以上に育ててくれました。
米軍キャンプのガードマンとして、「こどもの国」になってからは、
警備員として働きながら、農業をし真面目で忍耐強く、
貧しくてできなかった勉強を独学で克服した人で、
努力を惜しまぬ、信念の強い人でした。
七十歳過ぎに病弱だった妻を亡くし急に元気をなくしましたが、
やがて自分史を書くことで回復し元気に戻りました。
晩年はもう何も望むものはないという心境になり、
淡々と庭掃除などをしてすごしておりました。
九十歳を越えてすぐ病になり入院し、三か月の入院後、
病院で息をひきとりました。
大した介護もできなかったのに最後は苦しい息のなかで、
「もう何も言い残す事はない、ありがとう」といってくれました。
最期の朝はもう意識はなく息も止まっていましたが、
心臓はまだ止まっていない状態でした。
私の妻が「おとうさん、ご苦労様でした」と声をかけた途端
心臓のモニターの音とグラフが止まりました。
感謝。合掌。
●おトシさん
私の育ての母です、私が四歳のときに母になりました、
はじめはなつかず苦労した ようです。
とても優しい人で、献身的に夫に添い姑に仕えました。
祖母とも本当の親子のように仲がよく和やかな家庭でした。
しかし慣れない農作業や家事をやり無理が重なり、
私が中一の時結核になり長い闘病生活に入りました。
それ以来何度も入退院を繰り返す辛い生涯を送りました。
それでも退院している時は忍耐強く家事をささえ、
暗い家庭にはすることはありませんでした。
最後の入院の時はさすがに嫌がりましたが、覚悟を決めたように家を出ました。
病院ではことのほか元気を取り戻したような様子だったので、
身内や親戚の人は安心していったん引き上げました。
私だけ病院に残りましたが、その夜の三時ごろ病状が急変し、
呼吸困難に陥り、医師を呼ぶ暇もなく、
両手で虚空を探るように掲げて息が止まりました。
当直の医師や看護婦がかけつけて蘇生の処置をしましたが、
蘇生することなく私一人が見守る中永眠しました。
感謝。合掌。